ピティナ調査・研究

第8章-1 シャイヨ通り74番地

パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019
第8章-1
シャイヨ通り74番地
シャイヨ通り74番地(現在のカンタン・ボシャール通り12番地?)
12, rue Quentin Bauchart
75008 Paris
M① GeorgeV
1849年5月末より9月半ば

サンドの息子、モーリスは、成人するにつれて くショパンと対立するようになり、次第にモーリスを溺愛するサンドとショパンとの間に不協和音が鳴り始めます。さらに、ショパンはサンドの娘、ソランジュの結婚をきっかけに表面化した家庭内の いに巻き込まれ、サンドと決定的な破局を迎えることになりました。サンドとの別離によって、精神的にも肉体的にも大きな打撃を受けたショパン。周囲はそんな彼を励まそうと1848年2月にショパンの公開演奏会を企画して、大成功を収めます。ところが、その一週間後に二月革命が勃発。ショパンはこの革命の混乱を避ける為、弟子で支援者のひとりでもあった*ジェーン・スターリング嬢の勧めによって、春にイギリスへと旅立ちます。しかし、 病躯 をおしての半年以上に亘る異国への長旅は、ショパンの病状を想像以上に悪化させる結果となりました。言葉や生活習慣の違いに身も心も疲れ果てて11月の末に帰国した彼は、衰弱しきって床に臥す日々を送ります。そして、1849年5月末、再び流行し始めたコレラと夏の猛暑や湿気から逃れるために友人たちの支援を得て、当時、パリ郊外の閑静な区域であった、シャンゼリゼ界隈の新築住宅に転居しました。

凱旋門の上から見たシャンゼリゼ通り 1850年頃
Avenue des Champs-Élysées vue du haut de l'Arc de Triomphe
フェリックス・ブノワFélix Benoist(1818-1896)による石版画。
33, Avenue George V
75008 Paris
+33 (0)1 53 23 77 77
+33 (0)1 53 23 43 36
M① GeorgeV

かつてショパンが滞在したと考えられている館跡に、1929年にオープンした5つ星のラグジュアリーホテル。ショパンの部屋はこのホテルのパティオ上層に存在したとされる。シャンゼリゼ大通りから歩いて数分、アールデコ調のシックで洗練された館内には、客室の他にレストランやバー、スパを併設し、ゴージャスな雰囲気と清潔でリラックスした空間が共存する。

パティオ(中庭)
*ジェーン・スターリング嬢
ジェーン・ウィルヘルミナ・スターリング(1804 - 1859)
Jane Wilhelmina Stirling
ジェーン・スターリングと若きファニー・エルギン嬢( 後のレディ・ブルース、ブルース卿夫人;ブルース家は14世紀にスコットランド王国を支配した一門)
アシル・ドヴェリアAchille Devéria(1800 - 1857)による石版画 1840年頃

スコットランドの貴族の末裔。若くして両親を失くしたジェーン・スターリングは、姉のキャサリン・アースキンと共に1826年前後からパリにも居を構え、イギリスとフランスでの生活を始める。1843年頃ショパンと出逢い、熱烈な信望者となったスターリングは、ショパンがサンドと別れた後、秘書兼マネージャーとして献身的にショパンを支え、1848年にはイングランドとスコットランドを巡る連続演奏会を企画して旅の指南役として各地へ同行。ショパンが亡くなると遺された家具や身の回りのものを全て買い取り、喪服に身を包んで生活していたので、しばしば「ショパンの未亡人」と呼ばれた。ショパンは彼女を「善良な人」と評し、1844年春に出版された作品55の二つのノクターンを彼女に捧げ、晩年は彼女のサポートに感謝しながらもそれ以上の関係には発展せず、39年の生涯を閉じた。ショパン研究家のエドゥアール・ガンシュEdouard GANCHE(1880-1945)は、スターリングがレッスンを受けたショパンの楽譜を基にオックスフォード・オリジナル版を作成している。

ショパンへのスターリング姉妹による資金援助や1849年7月にショパンが受け取った匿名の寄付が、同時期にシャンゼリゼ界隈に滞在し、ショパンと交流があったスウェーデンのソプラノ歌手、ジェニー・リンドからであったという説も存在する。

ジェニー・リンド(1820 – 1887)
Jenny Lind

本名ヨハンナ・マリア・リンド Johanna Maria Lind
「スウェーデンのナイチンゲール」と称されたソプラノ歌手。
若くして自国で成功を収め、宮廷歌手としても活躍するが、度重なる公演で喉に深刻な障害を負い、1841年から1843年にかけて、サンドやショパンと親しかった歌姫、ポーリーヌ・ヴィアルドの兄で声楽家のマヌエル・ガルシア (1805–1906)に師事。 歌唱法を改めて声帯を回復したリンドの歌声は世界各地で絶賛され、国際的なプリマ・ドンナとなるが、以前、オーディションで落選したパリ・オペラ座からの依頼には決して応じなかった。20代でオペラ界から引退するも、コンサート活動は継続し、公演で得た莫大な収入は、慈善事業の推進や教育機関へ投じる等、慈善家としても広く知られていた。アンデルセンに求婚され、メンデルスゾーンやショパンとも親しい間柄にあったが、彼らの関係がどの程度のものであったかについては、さまざまな憶測の対象となっている。リンドは自ら編曲したショパンのマズルカ集を、1855年から1856年にかけてヴィクトリア女王のために2度にわたって披露、1858年、ロシア占領下にあったポーランドを訪れた際にも同曲を歌い、ショパン亡き後も、彼の音楽の紹介と普及に努めた。

フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。