ピティナ調査・研究

第7章-2 コンサート・ホールの建設

パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019
第7章-1
コンサート・ホールの建設

楽器の飛躍的な向上に伴って、ヴィルトゥオーゾたちの活躍が脚光を浴び始めると、人々はジャーナリズムの情報や批評を通してコンサート会場へと足を運ぶようになり、コンサートの需要が激増しました。その為、従来の劇場やオペラ・ハウスの他に、コンサート専用のホールが建てられ始めます。

ゲヴァントハウス(織物会館の意)を拠点としたことから名付けられた管弦楽団の例に見られるように、18世紀にはコンサート専用の空間がほとんど存在しなかったので、演奏会は教会や宮廷の大広間、多数の聴衆を一同に集めて演奏できる既存の大型建築スペースを借りて開催されていました。19世紀に入り、中産階級が度重なる階級闘争を経て勢力を増し、イギリスで先行していた産業革命に追髄する形で新時代の主役になると、音楽は教会や貴族、宮廷によって保護されるものから一般市民を対象に自由に商業化されるようになりました。そして、宮廷を中心に確立していったオペラに対抗する形で市民生活の中に浸透し、パリでは新たな音楽文化の活況が始まります。楽器の成熟によって登場したヴィルトゥオーゾたちへの人気が高まると、彼らを主役とする音楽的な催しが驚異的に増え、オペラ以外の音楽会を中心としたコンサート・ホールが望まれるようになりました。

*ゲヴァントハウス管弦楽団

市民階級による自主経営団体として1743年に発足した世界初のオーケストラ。
ドイツのライプチに本拠を置く。

1894年‐1895年の初代ゲヴァントハウス
Gottlob Theuerkauf(1833-1911)による水彩画

こうした状況の下、ピアノ・メーカーとして軌道にのった、プレイエル商会の2代目社長、カミーユ・プレイエルは、1830年1月1 日に演奏家の支援と自社ピアノの宣伝を目的とした世界初の私設ホール「サロン・プレイエル」を開場します。以降、プレイエルのサロンはショパンをはじめ、時代を代表する音楽家たちのさまざまな音楽シーンを演出し、フランス音楽界の発信地として重要な役割を担うようになりました。

新興ブルジョワは、ボックス席によって仕切られているオペラ座では叶わない上流階級との接触を試みて、しばしばコンサート・ホールへと足を運びます。当時の上流貴族は、オペラ座のボックス内に一族専用席というのを確保し、一般の観客とは隔離された位置で鑑賞していました。このボックス席は各貴族による代々の世襲制で、滅多に「空き」がでません。従って、ブルジョワ階級は経済的に彼らと同等になっても、同じボックス席に座って観劇するわけにはいきませんでした。ところが、世襲制のボックス席が存在しない、開かれたばかりのコンサート・ホールでの音楽会においては、チケットを入手さえすれば階級にかかわらず、以前なら顔を見ることさえ出来なかった侯爵や伯爵と同席して対等に音楽を鑑賞できるという魅力があります。かつてはありえなかった二つの階級が同じ場に会し、音楽ホールという共通の場を通してお互いのコミュニケーションが可能になりました。当時のコンサート・ホールは、貴族と新たに出現したブルジョワという二つの階級を融合させていく、社会的に重要な役割をも果たしていたのです。

1832年、ショパンはこの新しい演奏空間、プレイエルのサロンでパリ・デビューを果たします。1831年の12月25日に予定されていたコンサートは2度延期され、最終的には1832年の2月26日に開かれました。ショパンを応援する亡命貴族やリスト、メンデルスゾーンなど、パリ音楽界をリードする面々を招待客に連ねた、この小さなサロン・プレイエルでの成功によって、ショパンは瞬く間にパリ音楽界有数のソリストのひとりと数えられるようになります。

その後もショパンは、公式演奏のほとんどをプレイエルのホールで展開し、1849年2月16日に開かれたコンサートは、ショパンのパリ最期の舞台となりました・・・

旧サロン・プレイエル跡
L'Hôtel Cromot du Bourg
9, rue Cadet
75009 Paris 
M⑦ Cadet

L'Hôtel Cromot du Bourgは1735年にルイ15世の果樹園責任者が建造した屋敷。その後、王家に仕えていた金融担当官や男爵家による所有を経て、プレイエル・ピアノの製作所となる。以降、工房が移転するまで、製作したピアノのプロモーションと、時代を担うヴィルトゥオーゾたちの紹介を兼ねたサロン・コンサートを頻繁に開き、パリのピアノ界をリードした。1987年、歴史的記念物として認定登録。
現在、ショパンがデビューしたサロンはファッション&ビューティー、インテリア等の分野でマーケティング・スタイルを考える 企業、Nelly Rodi社の事務所が置かれ、新しい姿に。さまざまな形で、地域にパリの芸術文化を提唱していく。

1832年2月25日、ショパンがはじめてパリで初めて公開演奏した会場。
サル・プレイエル跡
22, rue Marguerite de Rochechouart
75009 PARIS
M⑦ Cadet

拡大したプレイエル社の移転に伴い、1839年12月にロシュシュアール通りの工房に併設される形でオープンした550席のサル・プレイエルがあった場所。ショパンは此処で1841年4月26日、1842年2月21日、そして1848年2月16日に公開コンサートを開いて演奏した。

1839年から1927年まで、ロシュシュアール通り22番地に存在したサル・プレイエル
サル・プレイエルでの演奏会風景1855
旧サル・プレイエルの座席表(550席)
252, rue du Faubourg Saint-Honoré
75008 Paris
TEL +33 (0)142 56 13 13
M②2 Ternes
M①②⑥(RER)(A) Charles de Gaulle - Étoile

1927年10月18日にフォブール・サントノーレ通りに移転オープンした大規模なホール。メインホールの他に、ショパンとドビュッシーの名を冠した小ホール二つを備え、さらにピアノ展示室が設置されていたこのホールは、世界中の注目を浴び、パリの代表的音楽スポットとして揺るぎない存在に。プレイエル社の経営難による紆余曲折を経て、2006年秋にリニューアルオープンしたが、2015年1月、ラ・ヴィレット公園内に新築された*フィルハーモニー・ド・パリPhilharmonie de Parisのオープンに伴い、クラシック音楽によるコンサートはフィルハーモニー・ホールへ委ねる形となり、プレイエル・ホールでのクラシック音楽演奏は終焉を迎えた。

サル・プレイエル内部。クラシック音楽のコンサート・ホールとしては終焉を迎えたが、音響設計も改善され、各国から訪れた音楽ファンを楽しませている。

Philharmonie de Paris
Cité de la musique - Philharmonie de Paris
221, avenue Jean-Jaurès
75019 Paris

19区の音楽複合施設、シテ・ド・ラ・ミュージック内のコンサート・ホール。設計はフランスのジャン・ヌーヴェルと助手のブリジット・メトラ、音響は日本の永田音響設計が担当した。サル・プレイエルが本拠地だったパリ管弦楽団の新本拠地で、2400人から最大3600人までが収容可能。さまざまなジャンルの音楽が楽しめる。

サル・エラール
Salle Érard
13, rue du Mail / 11, rue Paul-Lelong
75002 PARIS
M③ Bourse,/Sentier

プレイエル・ピアノ商会の競合ピアノ・メーカー、エラール商会が所有していたコンサート会場。
ウイーンからパリに到着したリストは、エラール家の後援を受けながらピアノ界のスーパースターとなり、この館に存在していた音楽ホールで度々演奏している。ショパンも、1835年2月、パリで親しくしていたドイツ出身のピアニスト、フェルディナント・ヒラーのコンサートにゲスト出演し、ヒラー作曲ピアノ2重奏を共演。その後、新しいホールが1850年代に建造され、1877年に改装。都市の騒音から十分に遮断された豊かな音響効果が注目され、サティ、ドビュッシー、ラヴェル、プーランク、メシアン等、時代を担う音楽家たちの初演の場となり、1963年にフランス公共ラジオ放送局、メゾン・ド・ラ・ラジオが建設されるまで、フランスの公共視聴覚サービスを担当する国内放送(RDF)の拠点となった。

マイユ通り13番地入口のプレート。「1823年から1878年にかけて、ハンガリーの巨匠、フランツ・リストはこの館にエラール一族によって迎え入れられた」
13, rue du Mail
75002 PARIS
M③ Bourse,/Sentier
TEL +33 (0)1.48.74.19.83
Fax+33 (0)1.45.26.11.82

その美しい装飾と共に敷地内にリニューアルされたエラール・サロン。約200人収容可能なこの空間は、コンサートをはじめ、ファッション・ショーやパーティー等、様々なイベントのステージとして利用されている。

マイユ通り13番地の中庭。
正面がエラール・サロン入口。かつて、左の建物は楽器の展示と販売に使われ、右側はエラール家の住居となっていた。
ピンクの大理石が美しい、エラール・サロンの玄関ホール
エラール・ピアノ工房入口跡
Les anciens ateliers de fabrication
21-23, rue du Mail
75002 PARIS
M③ Bourse/Sentier

サロン・プレイエルと同じマイユMail通りの21番地に在るエラール・ピアノ工房の扉。
上方には、エラール工房アトリエ入口の看板文字が今も残る。

当時の面影を偲ばせるホールへと抜ける通路 (マイユ通り23番地)
2 bis rue du Conservatoire
75009 Paris
M⑧⑨   Bonne Nouvelle

パリでショパンが演奏した、パリ高等演劇学院内に現存する唯一のホール。
ショパンはパリ到着直後のポワソニエール大通り、ほどなく移転したシテ・ベルジェールの2つの住まいから歩いて数分のこのホールで、1832年5月20日に開催された慈善演奏会の際に『ピアノ協奏曲ホ短調の第1楽章』を、1833年12月15日に人気ヴィルトゥオーゾ、ヒラーとリストと共に、バッハ作曲『3台のピアノの為のニ短調協奏曲』より"アレグロ"を、1834年12月14日にベルリオーズの演奏会の賛助出演で『ピアノ協奏曲ヘ短調』の緩徐楽章を、1835年2月26日に指揮者のアブネックを支援するための演奏会で『アンダンテ・スピナートと華麗なるポロネーズ』を演奏している。現在はパリ国立高等演劇学院。

パリ高等演劇学院入口
ホール入口
パリ高等演劇学院入口のプレート
1828年に発足したパリ音楽院演奏協会の創始メンバーでパリ音楽院管弦楽団の初代指揮者を務めたフランソワ=アントワーヌ・アブネックがベートーヴェンをパリの聴衆に紹介したこと、作曲家のベルリオーズが1830年にベルリオーズ自身の失恋体験を告白した標題音楽『幻想交響曲』作品14、1832年に幻想交響曲の続編として作曲された叙情的モノドラマ『レリオ』作品14bis、1834年に交響曲『イタリアのハロルド』作品16、1839年に劇的交響曲『ロメオとジュリエット』作品17を初演したことが記されている。
当時、フォブール・ポワソニエール通り17番地に位置していたパリ音楽院の正門(1848)
1843年のパリ音楽院演奏協会コンサートの様子
中央で指揮をしているのがフランソワ=アントワーヌ・アブネック(1781〜1849)。
パリ高等演劇学院ホールのロビー
パリ高等演劇学院ホールで行われていたリハーサル風景
フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。