第7章-1 スクワール・ドルレアン 9 番地
75009 Paris
M⑫ Saint-Georges,Torinité d’Estienne d’Orve, Notre-Dame de Lorette
1842 年 9 月末~1849 年
ショパンとサンドの新しい住まいとなったスクワール・ドルレアンは、緑の美しい、静かで落ち着いた佇まいの集合住宅でした。当時、政府が新しく開発し始めた、モンマルトルの丘の麓の区画です。周辺にギリシャ風の建築様式や装飾を持つ建物が多く、1833 年に独立したギリシャが社会的に注目されていたことから「ヌーヴェル・アテネ」と呼ばれ、多くの文化人や芸術家がこの界 隈に移り住み、頻繁に集っては協力し合う、芸術共同体を形成していました。ショパンはこのアパートの 9 棟の中二階、サンドは 5 棟の二階に部屋を見つけ、同じ敷地内に住む共通の友人達と、一種の共同生活を始めます。
80, rue Taitbout
中庭を囲むように建てられた数棟から成るネオ・クラシック様式のアパートメント。当初は「シテ・デ・トロワ・フレール」と呼ばれ、その後、「シテ・ドルレアン」、さらにスクワール・ドルレアンと改名。イギリスの建築家によって1841年に完成したが、入り口は1854年までサン・ラザール通りに位置し、中央の噴水と緑の芝生は1856年に設置された。現在はBNPパリバ銀行の所有。1977年以来、フランスの歴史的記念物に指定されている。
スクワール・ドルレアンにはピアニストのカルクブレンナーやパリ音楽院でピアノ科教授として後進の指導にあたっていたジィメルマン、作曲家のアルカン、ショパンとサンドが懇意にしていた歌い手、ポーリーヌ・ヴィアルド夫妻、作家のデュマ(父)、ショパンやリストの彫像を制作した彫刻家のダンタン、プリマ・ドンナのタリオーニらが住んでいた。
Pierre-Joseph-Guillaume Zimmerman
19世紀前半のピアノ教育界の第一人者。作曲家。パリ音楽院ピアノ科主任。
ピアノ製造業者の息子としてパリに生まれ、パリ音楽院に学ぶ。音楽院時代はカルクブレンナーと競って首席で卒業し、その後、ケルビーニに学んでパリ音楽院教授に就任。グノーをはじめ、ビゼー、フランク、アルカンや後継者となったマルモンテルを育てる。また、博識で社交的な人柄で数々のサロンに招かれ、芸術家同士の交流の場を提供するサロンの主催者としても高い支持を得ていた。著書に『ピアニスト兼作曲家の百科事典 Encyclopédie du Pianiste Compositeur』。
Antoine François Marmontel
ピエール・ジィメルマンに師事したフランスのピアニスト、作曲家、著述家。
1827年にパリ音楽院に入学し、1848年にジィメルマンの後任教授としてピアノ科で教鞭を執る。
門弟にジョルジュ・ビゼー(1838‐1875)、イサーク・アルベニス(1860‐1909)、ユゼフ・ヴィエニャフスキ(1837‐1912)、クロード・ドビュッシー(1862‐1918)、ヴァンサン・ダンディ(1851‐1931)、著作に『有名ピアニストたち』(1878)、『交響曲作家とヴィルトゥオーゾ』(1880)、『同時代のヴィルトゥオーゾ』(1882)、『音楽美学の諸原理と諸芸術の美についての考察』(1884)、『ピアノの歴史とその起源』(1885)等が有り、19世紀のピアノ音楽史研究にとって貴重な資料となっている。チャイコフスキーの『ドゥムカ』作品59(1886)はマルモンテルに献呈された作品。
Charles Valentin Alkan
フランスのピアニスト、作曲家。
スクアール・ドルレアンのショパンの隣人で、ショパンの死後、その弟子の多くを引き取った。
ユダヤ系の家庭に生まれ、パリのユダヤ人居住区に育つ。音楽家であった父親は、同地でパリ音楽院を目指す子供達の為の音楽予備校を経営していた。幼くして才能を発揮し、6歳でパリ音楽院に入学。ピエール・ジィメルマンのクラスで学び、ジィメルマンの助手として音楽院で後進の指導にあたる傍ら、演奏活動を開始。リストやショパンと親交を深め、度々共演してパリの若きヴィルトゥオーゾのひとりとして脚光を浴びるが、大衆的な名声や評判から距離を置き、独自の路線を探求していく。1848年、師であったジィメルマンの後任ポストを同門のマルモンテルと激しく争って敗れ、大きな挫折感から次第に公的な活動から遠のき、74歳の生涯を閉じた。
Jean-Pierre Dantan
フランスの彫刻家・風刺画家。
パリ国立高等美術学校で学び、当時の政治家や文化人、芸術家の小さく風刺的な胸像を多数創作し、パッサージュ・パノラマの一画で販売。《ダンタン美術館》として評判になった。
Marie Taglioni
ロマンチック・バレエを代表する舞踊家。ストックホルムの舞踊家の家系に生まれ、1822年にウィーン、1827 年にパリ・オペラ座で初舞台を踏む。1832 年に父の振付による『 ラ・シルフィード 』 La Sylphide 初演のヒロインを演じて大成功を収め、宙を舞うような軽やかな踊りはヨーロッパ各地で絶賛された。この作品で初めて、やわらかいチュールを重ねた膝下丈のロマンティックチュチュが衣装として、つま先立ちが技術として用いられ、プリマ・ドンナの名声と共にバレエ史上に刻まれる公演となった。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。