第6章-2 ヴィルトゥオーゾの出現
19世紀の楽器の発達に伴って出現した類稀な表現技術を持つ演奏の名手は「ヴィルトゥオーゾ」と呼ばれて時代の 寵児 となります。 超絶技巧 という概念は古くからありましたが、彼らはそれまでオペラのスター達が展開してきたような鮮やかな技巧を器楽の分野に 齎 し、聴衆は目の眩むようなヴィルトゥオーゾたちのスリリングな演奏に熱狂し、拍手喝采しました。
中でも、イタリアのジェノヴァに生まれたヴァイオリニストのパガニーニ(1782-1840)の存在は絶対的で、1828年から1834年にかけてヨーロッパ中の舞台に登場し、その超人的な技巧で当時の音楽界に一大センセーショナルを巻き起こします。彼は技巧の無限の可能性を示し、ロマン派の音楽家たちに強烈な印象を与えました。
パガニーニのパリ・デビューは1831年の3月9日、彼が49歳の時で、パリで11回の演奏会を開いたという記録が残っています。パリでパガニーニの演奏に接したリストが大きな衝撃を受けて「ラ・カンパネラ」を作曲したのは有名な話ですが、パガニーニの演奏はリストの演奏スタイルと作曲技法を根底から覆しました。リストはパガニーニの演奏から作品の着想のみならず、高度な演奏技術がもたらす表現の可能性を学びました。そして、リスト自身もその後の30年代から40年代にかけ、屈指の「ヴィルトゥオーゾ」としてヨーロッパ中で伝説的な評価を受けることになります。
ショパンも(おそらく1829年に)、ワルシャワでパガニーニを聴いて「パガニーニの思い出」というピアノ曲を作曲しています。さらに、ショパンはパガニーニの無伴奏ヴァイオリン曲「24の 奇想曲 」に触発されて、『練習曲』の作品10と作品25を完成し、時代の先端を行くピアニズムを確立したといわれています。
19世紀以前のピアノ奏者は、全て自作自演の作曲家兼ピアニスト、 所謂 コンポーザー・ピアニストで、現在のように純粋に演奏だけで生活しているピアニストという職業は、まだ確立されていませんでした。ピアノという楽器が遂げた飛躍的な進歩によって、超人的な技巧が必要とされるピアノ作品が次々と生み出されるようになり、次第にピアニストと作曲家の役割が分かれるようになります。つまり、ピアニストという人種は、ショパンの時代に新たに生まれた職業だったというわけです。
ピアノの性能の進歩は、弾き手に最大の敏捷さと反射神経が要求されるすばやいパッセージや広音域に渡る跳躍、トリル、トレモロ、グリッサンドを可能にし、聴衆は演奏の煌びやかさや圧倒されるような技巧によってピアニストの技量を測るようになります。この風潮に煽られて、彼らはピアノという楽器を自由自在に操りながらさまざまな曲芸的演奏を繰り広げ、パリはピアニストの競争の場と化し、街には凄まじいヴィルトゥオジテの嵐が吹き荒れていきました。
ショパンはこうした動きに惑わされることなく、作品から一過性のアクロバット的要素を排除し、永続し得る音楽の内的な表現へと独自の創造方向を見定めていきます。聴き手の心の琴線に触れるような深い精神性の宿る別次元の音楽~サンドとの出会いをきっかけに公開演奏の場から遠のいたのも、健康上の理由のみならず、ショパンの芸術表現に対するひとつの自己表明であったにちがいありません・・・
Jacob Rosenhain (1813-1894)
ドイツ出身のユダヤ系ピアニスト・作曲家。
銀行家の長男としてマンハイムに生まれ、11歳で公式デビュー。ドイツ国内でキャリアを積む。1830年にはパガニ―ニのコンサートでも演奏している。その後、ロンドンを経て1837年にパリへ渡り、ロッシーニやケルビーニ、ベルリオーズらの知遇を得、パリの音楽界、とりわけ室内楽の分野で頭角を現し、30年の間、第一線で活躍した。15歳のブラームスは1848年のデビュー・コンサートで、ローゼンハインの作品を取り上げている。1870年の普仏戦争開戦を機にパリを去り、残りの人生をバーデン=バーデンで過ごした。
Theodor Döhler (1814-1856)
ナポリで生まれたドイツ人ピアニスト・作曲家。
1829年から1834年までウィーンに居を構え、ツェルニー(1791- 1857)の下でピアノを学ぶ傍ら、音楽理論家、ジーモン・ゼヒターから作曲の指導を受ける。1834年からコンサート・ピアニストとしてヨーロッパ中を旅して周り、ヴィルトゥオーゾとして名を馳せた。
1846年、それまで受けていたルッカ公国から男爵の地位を与えられ、貴族の一員となったデーラーは、同年、ロシアの王女であるエリーゼ・シェレメテフElise Sheremeteffとの結婚を機に、公開演奏から引退し、モスクワに落ち着く。1848年にはナポリへ戻り、晩年は作曲家としてピアノ小品やオペラを創作した。
Alexander Dreyschock 1818-1869)
ボヘミア出身のピアニスト兼作曲家。 プラハで学び、1838年よりドイツの諸都市で演奏活動を開始。その圧倒的な技巧、大音量とスピードで、詩人ハイネにドライ(ドイツ語で数字の3を表す)・ショックと称され、ショパンの《革命のエチュード》の左手をオクターブの連続で弾きこなすという離れ業は各地で聴衆を熱狂させた。1862年にアントン・ルビンシテインの招きで新設されたばかりのペテルブルク音楽院の創設に加わり、ロシア宮廷の専属ピアニストや帝国オペラ学校の校長も兼任するが健康を害し、イタリアに転地した翌年の1869年にヴェネチアで50年の生涯を終えた。
Sigismond Thalberg (1812-1871)
スイス出身のピアニスト・作曲家、教育家。オーストリアの名門貴族と男爵夫人の落胤と云われ、ロマン派時代の最も傑出したピアニストのひとりとしてリストと並び称された。ロンドンでモシェレスに、パリでカルクブレンナーに、ウィーンでフンメルとツェルニーに学び、ロッシーニやマイアベーア、ベルリオーズらの喝采を浴びる。1836年4月に開いたパリでのソロ演奏会はセンセーショナルを巻き起こし、前例のない破格の収益を手にしたことでも話題となった。1837年3月に実現したリストとのピアノ対決は、ベルジョイオーソ夫人が下した「タールベルクは世界で一番のピアニスト、リストは世界で唯一のピアニスト」という判定と共にピアノ界の伝説となっている。1843年、イタリア出身のオペラ歌手、ルイジ・ラブラーシュ Luigi Lablache (1794‐1858)の娘と結婚し、1858年のアメリカ演奏旅行後、ナポリ近郊に移る。4年間の沈黙の後、1862年に演奏活動を再開。翌年のブラジル公演を最後にピアニストとしてのキャリアに終止符を打つ。 晩年はナポリ音楽院で後進の指導にあたった。
Édouard Wolff (1816-1880)
ポーランド出身の演奏家・作曲家・ピアノ教師。ワルシャワのユダヤ人医師の家庭に生まれる。12歳の時にウィーンに向かい、ワルシャワ音楽院教授でショパンにオルガンの手ほどきをしたW.ヴュルフェル (1790~1832)に師事。1832年に帰国してショパンの師であるエルスネルに作曲の指導を受けた後、1835年にパリへ渡り、各地で時のヴィルトゥオーゾとして喝采を浴びた。作風は、同郷のショパンの強い影響が感じられる。1844年にピアノ教師のメラニー・マースと結婚し、教育者として、後に兄とのヴァイオリンとピアノのデュオで名声を得た、甥にあたるユゼフ・ヴィエニャフスキJózef Wieniawski(1837- 1912)やエマニュエル・シャブリエ(1841-1894)等、優れた弟子を育てた。晩年は病に倒れ、結婚生活も破綻したが、楽譜出版やピアノ製造に関わるかつての友人たちに支えられ、その生涯を閉じた。
Adolf Henselt (1814-1889)
ドイツ出身のピアニスト・作曲家。1838年にサンクトペテルブルクに移住し、生涯をロシアのピアノ教育に捧げ、ロシア・ピアニズムの基礎を築いた。
バイエルンの染物業者の家に生まれ、ミュンヘンで音楽教育を受ける。1832年、バイエルン王ルードヴィヒ1世の援助でフンメルに師事。その後、1834年までウィーンの高名な音楽理論家であったジモン・ゼヒター(1788-1867)の下で研鑽を積み、手を広げて指を訓練する独自の練習方法を考案。幅広い音域のアルペジオを得意とした。1837年に裁判所の医師の妻と恋に落ちて結婚。翌年、ロシアでの演奏旅行で大成功を収め、サンクトペテルブルクに定住。1842年と43年にリストが、翌年にはシューマン夫妻がこの地を訪れ、親交を深めている。ロシア宮廷ピアニストに就任し、ロシア皇族の子息子女の教育をはじめ、皇帝の管轄下のあらゆる教育機関の相談役として教育に従事する傍ら、クレメンティ、フンメル、ベートーヴェン、ウェーバー、ショパンらの作品を校訂して出版し、今日のロシアのピアノ界へ多大に貢献した。1862年には、アントン・ルビンシテイン(1829-1894)によって開かれたロシア初の音楽専門教育機関である、サンクトペテルブルク音楽院の副院長を務め、1876年には貴族の称号を与えられた。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。