第5章-2 ピアノの発達
ショパンの暮らしていた1830年代のパリは、まさにピアノの都でした。時代を代表する演奏家の活躍やサロンの発達、一般家庭への音楽の普及に伴って、数多くのピアノ製造業者が競合し、ピアノは人々から最も愛される楽器として目覚しい発達を遂げます。
中でも、エラールとプレイエルは、フランスの二大ピアノ・メーカーとして激しく競い合っていました。両社とも、19世紀には10万台のピアノを製造したといわれています。ショパンが「体調のすぐれないときは時はエラールで弾き、良い時はプレイエルで弾く」と発言しているように、一般に、エラールのピアノは響きが華やかで音量も豊かであったのに対し、プレイエルの楽器は柔らかい鍵盤と鈴のような音色で、僅かなタッチの変化にも敏感に反応したといわれています。ショパンはこの繊細なプレイエルのピアノがお気に入りで、生涯これを愛用しました。
1807年にパリにピアノ工房を開いたプレイエル商会の創業者、イグナツ・プレイエル(1757-1831)は、自らもハイドンに師事したコンポーザー・ピアニストで、オーストリア生まれ。1783年にフランスのストラスブールに移りますが、大革命の混乱を避けて産業革命の波に乗っていたイギリスに渡り、その後、フランスに帰国して楽譜出版を営み、次いでピアノ製作の世界に身を投じます。プレイエルは厳選した素材とイギリス仕込みの卓越した技術で作曲家や演奏家の要求に応える楽器造りを目指しました。その可能性を限りなく求める姿勢は各方面で強い支持を得て、ヨーロッパ王室御用達の由緒ある逸品として国際的に高く評価されるようになりました。
イグナツの健康の悪化を機に、長年の友人で、当時、パリ音楽界の中心的存在で音楽院教授でもあったピアニスト、カルクブレンナーが共同経営者としてピアノの製造や販売に加わり、跡を継いだ長男のカミーユ・プレイエル(1788-1855)と共に着実に業績を伸ばしていきます。彼らはそれまでオーケストラの代用品でしかなかったピアノを独立した楽器として扱い、ピアノ固有の響きとタッチ、音色の多様性を追及して、ニュアンスの微妙な表現を可能にしました。
Camille Pleyel
ピアノ・メーカーとしてショパンに相応しい音色を追究し、芸術擁護者としてショパンの良き理解者であったカミーユ・プレイエル(1788-1855)。ペダルの開発や、それまで木製であったグランド・ピアノのフレームに金属を採用するなど、ピアノ製造の歴史に大きく寄与した。
Friedrich Wilhelm Michael Kalkbrenner
フランスに帰化したドイツ出身の音楽家。 ショパンの『ピアノ協奏曲 第 1 番』は彼に献呈されている。パリ音楽院で専門教育を受け、ウィーンでさらなる研鑽を積んだ後、演奏家、作曲家として活躍。ヨーロッパ全土で不動の名声を確立し、パリ随一のピアノ教師となったカルクブレンナーは、上腕の代わりに手指の力で奏する手導 器を開発し、《手導器を用いたピアノ・フォルテ学習のためのメソッド Methode pour apprendre le piano forte a l'aide du guide - mains 》(1831)を出版。パリに到着したばかりのショパンにも、 このメソッドに即したレッスンを受けるよう促した。ショパンがこの申し出を断って独自の道を歩 んだにもかかわらず、カルクブレンナーはその後もショパンの活動を支え、彼の作品を広めることに尽力した。また、プレイエル商会のピアノ製造にも関与して実業家としても成功を収め、1849年、コレラに感染し、奇しくもショパンと同年に63 歳の生涯を閉じた。
ショパンが愛用していたプレイエルのグランド・ピアノは、音域が6オクターヴ+五度、ペダルは2本、弦は1本から3本と、限りなく今のピアノに近いものでした。ショパンが「ピアノの詩人」として今日まで広く一般に知られるようになったのは、ピアノが歌わせる楽器としての性能を備えて成熟していった時期に音楽家としてのキャリアを積み始め、その発達と共に彼自身の創作も発展していったからでしょう。
一方、エラール商会は1796年にピアノ工房の職人であった、セバスティアン・エラール(1752-1831)によってパリに創設されました。エラール社による数々の発明の中で最も重要なものに、1821年に特許が下りた「ダブル・エスケープメント」装置があります。これは鍵盤が半分ほど戻った時に既に次の打鍵ができるように工夫されたもので、この装置によってはじめてトリルやトレモロなどの連打がピアノの鍵盤ですばやく出来るようになりました。
Sébastien Erard (1752-1831 )
フランスのピアノ製造技師。エラール・ピアノメーカーを創業し、リストを広告塔に工房を発展させた。ストラスブールに生まれ、16歳でパリに上京。1777年、最初のスクエア・ピアノの製作によって名声を高めるが、フランス大革命の危機を察知し、イギリスへ渡る。1790年にチェンバロ形のピアノを製造し、1792年にロンドンで工房を設立。1796年にパリへ戻り、イギリス式アクションのピアノに改良を加えた最初のグランド・ピアノ製作を皮切りに、ロンドンとパリという、2つの工房の連携をとりながら、甥のピエールと共に、現代のグランド・ピアノの原型となるレペティション機構(ダブル・エスケープメント・アクション)の特許取得やぺダルの考案等、数々の画期的な改良を成し遂げた。セバスチャンの死後は甥のピエールが事業を引き継ぎ、19世紀後半には、フランス最多の職人を抱える、国内最大のピアノ・メーカーに成長した。
リストは1824年の6月29日のロンドン王立劇場における演奏会の時に、このエラールが開発した「ダブル・エスケープメント」機能を備えた新しいグランド・ピアノを弾いて大成功を収めました。エラールのピアノはリストの演奏と作曲の可能性を広げるにあたって大きな役割を果たし、リストが長く愛用する楽器のひとつとなります。
このように、演奏家と楽器製作者はそれぞれの世界を表現するパートナーとして強い絆で結ばれ、互いに協力しながら次々と優れたメカニズムを生み出していきます。フレームやハンマーには新しい材質が用いられるようになり、ペダルの本数とその機能、ピアノの大きさと弦を張る方式が変わり、弦の張力と鍵盤の数が増しました。楽器の向上は、ピアノ奏法とピアノ曲の作曲法を発展させただけでなく、演奏会の内容や雰囲気にも大きな変化をもたらします。ピアノは大音量のオーケストラと共演できるようになり、これによって演奏会はサロンのみならず、大きなホールや会場で開かれるようになりました。
Cité de la musique - Philharmonie de Paris
221, avenue Jean-Jaurès
75019 Paris
+33 (0)1 44 84 44 84
火曜~金曜12時から 18時
土曜・日曜10時から 18時
月曜休館 / 12月25日、1月1日、5月1日閉館
料金:8€
musee@philharmoniedeparis.fr
M⑤ Porte de Pantin
食肉市場と屠殺場だった55ヘクタールの土地を再開発したヴィレット公園の音楽都市、シテ・ド・ラ・ムジークの中に有る楽器博物館。フランスの建築家、クリスチャン・ド・ポルザンパルクによる画期的なデザイン。時代別に展示され、模型やビデオで視覚的に、また、入口で借りられる無料のオーディオ・ガイドで実際の音を聞きながら見学できる。必見はショパンが愛用していたプレイエル・ピアノ。