ピティナ調査・研究

第5章-1 トロンシェ通り5番地

パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019
第5章-1
トロンシェ通り5番地
トロンシェ通り5番地
5, rue Tronchet
75009 Paris
M⑧ ⑫ ⑭ Madelaine
1839年10月から1841年11月まで

病弱だったにもかかわらず、夜会の寵児として昼夜逆転した生活を続けたショパン。不摂生が祟り、度々、体調を崩します。悪化するショパンの健康状態に、娘・マリアとの結婚を危惧したヴォジンスキ家は、一方的にこの縁談を破棄しました。婚約を解消されたショパンは*心に深い傷を負いますが、やがて、二人の子供の母親であった 6 歳年上の女流作家、ジョルジュ・サンドを愛するようになり、子供達の保養にスペインのマヨルカ島へ旅立つサンドに同行します。しかし、この旅は島の悪天候や食糧事情、移動手段の不備等によってショパンの健康状態に決定的なダメージを与え、衰弱しきったショパンは**パリへの帰途中、サンドの実家、ベリー地方のノアンの館でしばらく静養することになりました。

  • マリアから贈られたバラの花と手紙の束。
  • ショパンの死後、「わが哀しみ」と書かれた包みの中から発見された。 1838年10月27日、マヨルカ島へ出発。1839年6月1日よりノアンに滞在。同年10月11日にパリへ帰着。

サンドの献身的な看護ですっかり健康を取り戻したショパンは、パリでの生活を一新しようと、サンドとショパンの共通の友人で全信頼を寄せていたポーランド貴族、*ヴォイチェフ・グジマワとワルシャワ時代からの学友、*ユリアン・フォンタナに新居探しを託します。 二人がショパンの為に見つけたのは、当時、ポーランド人倶楽部があったゴドー・ ド・モロワ通り Rue Godot de Mauroy にほど近い、マドレーヌ寺院の裏手に位置する、トロンシェ通りのアパートでした。

ゴドー・ド・モロワ通り
Rue Godot de Mauroy
75009 Paris

かつてポーランド人組織があった通り。18番地には1836年の終わりに設立され、1837年から活動を開始したポーランド人倶楽部が存在した。安く食事ができ、ポーランド語の新聞や雑誌に目を通したり、トランプや玉突きもできたクラブは、パリのポーラン ド人の社交場であった。ショパンも足繁く通っては知り合いのポーランド人たちと語りあい、集会の際には即興演奏を披露したという。

ジョルジュ・サンド
George Sand(1804-1876)

フランスの女流作家。1838年から1847年にかけてショパンと交際。初期の女性解放運動家としても知られる。

ヴォイチェフ・グジマワ伯爵(1793‐1871)の肖像

ポーランドの名家に生まれ、軍人としてのキャリアを積んだ後、銀行家としてワルシャワ貴族社会のリーダー的存在に。1830 年のワルシャワ蜂起後、パリに亡命。ワルシャワ時代から音楽批評を執筆してショパンをはじめとする多くの芸術家を擁護し、パリでもサンドとショパンの共通の友人として二人の恋の相談役となった。

ユリアン・フォンタナ(1810‐ 1869)
Julian Fontana1860

ショパンのワルシャワ時代からの友人。『2つのポロネーズ作品40』はフォンタナに献呈されている。ワルシャワ大学で法律を学び、自身も音楽家であったが、砲兵隊中尉としてワルシャワ蜂起に参加し、ハンブルグを経てパリに亡命。ショパンの楽譜の写譜や出版社との交渉、住居の管理や召使の手配など、公私にわたってショパンの身の周りの世話をした。その後、キューバ経由で渡米したが、ショパンの死後、パリへ戻って遺品や遺作の整理をし、作曲家や指導者として活動を再開。結婚して子供にも恵まれるが、妻に先立たれ、晩年は軟調と貧困に悩まされ、クリスマス・イヴの前日に一酸化炭素を吸って自らの命を絶った。ショパンの死後、彼の遺言に反して《幻想即興曲》を世に出した人物としても知られる。

『ジョルジュ・サンドとショパンの肖像』(1838頃)

ドラクロワによって描かれた二人の肖像画。ピアノに向かうショパンと葉巻を手にしたサンドの姿が100X150センチのキャンバスに油彩で描かれ、ドラクロワの死後、今も残るフュルステンベルク広場のアトリエに未完の状態で発見された。その後、友人の風景画家、コンスタン・ディティ―ユ(1804-1865)の管理を経て1863年から1874年の間に売却目的で切り取られたと考えられている。肖像画はそれぞれ競売にかけられ、ショパンの部分はパリ音楽院教授で作曲家、アントワーヌ・マルモンテルAntoineMarmontel(1816-1898)の息子、アントニン・マルモンテルAntoninMarmontel(1850-1907)に、サンドの部分はデンマークの実業家に買い取られた。現在、ショパンの肖像はルーヴル美術館、サンドの肖像はデンマークのコペンハーゲン北部にあるオードロップゴー美術館に展示されている。

  • ショパンとジョルジュ・サンドのダブルポートレートのスケッチ 鉛筆画 12.5×14cm
    コンスタン・ディティ―ユ(1804-1865)
    ドラクロワの最も身近な友人として1837年からパリのサロンに定期的に出品していた風景画家。コローのコレクターとしても知られている。20世紀を代表する作曲家アンリ・ディティ―ユ(1804-1865)の曽祖父で、ドラクロワとコローの作品カタログやドラクロワの宮殿サロンに描かれた装飾画についての著述者、版画家のアルフレッド・ルボーAlfred Robaut (1830-1909)の義父に当たる人物。
ウジェーヌ・ドラクロワEugène Delacroix (1789‐1863)
Julian Fontana1860

フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。音楽に造詣が深く、自身もヴァイオリンを演奏したドラクロワは1836年12月13日にショパンと出逢い、彼の人間性と芸術を高く評価し、生涯の友情を結ぶ。 既にサンドとも親しい関係にあったドラクロワは愛し合う二人の姿をキャンバスに留め、1842年、43年、46年と3度に亘り、フランス中部のサンドの実家で夏の休暇を共に過ごした。

ナダール撮影のポートレート(1858)
ヴィスコンティ通り
Rue Visconti
75006 Paris

かつて、マレ=サン=ジェルマンMarais-Saint-Germain通りと呼ばれていたサン=ジェルマン界隈にある小さな路地。17番地から19番地はバルザックが開いた印刷所と活字鋳造所、いくつかのアトリエに分かれ、さまざまなアーチストの創作の源となっていた。ドラクロワは版画家、ウジェーヌ・ラミEugène Lami(1800-1890)の後を引き継ぐ形で1835年から9年間、ここに大規模な工房を構え、ピアノを運び入れてショパンとサンドの肖像画を描いた(1838年前後)。時を代表する芸術家や文化人が居住していた為か、この通りはヴィクトル・ユゴー(1802-1885)の『レ・ミゼラブル』(1862)をはじめ、コレット(1873-1954)作の『パリのクロディーヌ』(1901)、アナトール・フランス(1844-1924)作の『小さなピエール』(1918)等、数々の文学作品に登場している。

『人間喜劇』の作者、バルザックが1826年から1828年にかけて開業した印刷所の跡地を示す17番地のプレート
24番地の入り口に掲げられている劇作家のラシーヌ(1639-1699)が終焉を迎えたことを示すプレート。
ドラクロワ美術館
Musée National Eugène Delacroix
6, rue de Fürstenberg 75006 Paris
+33 (0)1 44 41 86 50
+33 (0)1 43 54 36 70
www.musee-delacroix.fr
contact.musee-delacroix@louvre.fr
St. Germain des près
M④
開館時間:9:30-17:00/第1木曜日21時まで
休館日:火,1/1,5/1,12/25
料金:7E(ルーヴル美術館入場チケットで48時間以内無料)
弟1日曜無料

ショパンとサンドの肖像が発見された ドラクロワ最期のアトリエ。
健康状態の悪化により体力が著しく衰えていた ドラクロワは、1847 年以来装飾を手がけていた小聖堂(現サン・アンジュ小聖堂)のある 聖 サンシュルピス教会に通うために1857 年 12 月 28 日、このアトリエに移り住んだ。現在、ルーヴル美術館分館。

シュルピス教会
Eglise Saint-Sulpice
Place Saint-Sulpice 2, rue Palatine
75006 Paris
+33 (0)1 42 34 59 98
+33 (0)1 46 33 21 78
www.paroisse-saint-sulpice-paris.org
t. Sulpice
7H30~19H30
日曜ミサ:7時、9時、10時半

「ダヴィンチ・コード」で一躍有名になった左右非対称の塔を持つ教会。
サン・ジェルマン・デ・プレ修道院によって 6 世紀に建てられ、当時の大司教、聖 サン シュルピスに捧げられた。その後、ルイ 13 世妃アン・ドートリッシュの提案により、100 年の歳月をかけて大修復した結果、奥行き 113M、間口 58Mという、フランスでも有数の規模を誇る教会が完成。6588 本ものパイプを持つ、世界最大級のパイプオルガン、美しい大理石のマリア像、入ってすぐ右側の「聖 サン アンジュ小聖堂」にドラクロワが描いた宗教画がある。

教会広場の「4人の枢機卿の噴水」はヴィスコンティの作品
ドラクロワが壁画を描いた聖サンシュルピス教会
聖サンシュルピス教会1840
ル・プロコープ
Le Procope
13, rue de l'Ancienne Comédie 75006 Paris
+33 (0)140 46 79 00
M④ ⑩ Odéon
年中無休 10H30~25H

1686 年にシチリア島出身のイタリア人、プロコピオ開いたパリ最古のカフェ。 1689 年、通りの向かいに劇場(コメディ・フランセーズ)がオープンしたことから、演劇関係者や劇作家の集うカフェとなり、18世紀には哲学者のヴォルテールや思想家のルソー、百科全書派のディドロらが通う。アメリカ独立への協力をフランス王国に仰いでいた米政治家ベンジャミン・フランクリンは、このカフェでアメリカ合衆国憲法の一部を起草した。革命期には、ダントンやマラー、ロベスピエール等、指導者たちの活動拠点となり、19 世紀にはユゴーやバルザック、サンドたちが通った。店内には、ディドロの机、皇帝になる前のナポレオンが料金の代わりに置いていった帽子や歴代来訪者の肖像画が飾られ、フランス史の変換を偲ばせる。ショパンの肖像画が掛けられたサロンも。

ショパンの間
ショパン・サロンの壁に掛けられたショパンのポートレート
ショパンとサンドの席を示すプレート
ショパンのサロンへ続く二階
ルーヴル美術館
Musée du Louvre
34-36, quai du Louvre 75001 Paris
+33 (0)1 40 20 51 51
www.louvre.fr
M①⑦Palais Royal-Musée du Louvre
9時~18 時(水/金~21 H45 ) 休:火曜
料金:15ユーロ
毎月第1日曜日無料

12世紀末に要塞として造られた建物は、中世時代に幾度となく増改築が繰り返され、歴代フランス王家の宮殿に。1682年、ルイ14世によって王宮がヴェルサイユに移されたのを契機に、王室美術品コレクションの収蔵、展示場所になった。大革命を経てルーヴル宮殿に所蔵されていた王室美術コレクションは国有財産となり、1793年、ルーヴルは美術館として国民公会の手で大衆に開かれた。その後、ナポレオンが出現し、ヨーロッパ諸国との戦争に勝利し続けたことによって、コレクションは諸国からの略奪品で溢れたが、失脚後はコレクターの遺贈・寄贈が主になり、二度の世界大戦を経て収蔵品の拡大も緩やかになった。1980年代、ミッテラン大統領によるパリ大改造計画の一環として「グラン・ルーヴル計画」が組まれ、1989年にガラスのピラミッドが完成。1993年には財務省が存在していた部分も美術館に組み込まれ、現在の規模となった。内部はリシュリュー、ドノン、シュリーの3つの翼から構成され、それぞれが半地階から2階までの4層構造。インフォメーションやチケット売り場はガラスのピラミッド下のナポレオンホールにあり、ここから3つの翼にアクセスが可能。ショパンの肖像はシュリー翼2階の942室で鑑賞できる。

チュイルリー庭園
Jardin des Tuileries
Place de la Concorde
113, Rue de Rivoli 75001 Paris
Tel. +33 (0) 1 40 20 53 17
M①⑧Ⅰ2 Concorde Tuileries Musée d'Orsay
開園時間
10 月~3月/7H30~19H30
4月・5月・9月 / 7H~21H
6月・7月・8月 / 7H~23H
入場は閉館時間の30分まで

チュイルリー庭園は、1564年、Catherine de Medici妃によって、ルーヴル美術館とコンコルド広場の間に建造された、チュイルリー宮殿の庭。チュイルリーの名はかつてこの地に瓦(チュイール)を製造する工場があったことに由来する。当初はイタリア式庭園であったが、17世紀に造園師ル・ノートルにより、優雅で広大な左右対称の典型的なフランス式庭園に造り替えられた。

1838年2月、ショパンはルイ・フィリップ王家主催によるチュイルリー宮殿の夜会で演奏し、大反響を呼ぶ。1841年12月1日、オルレアン公の求めで、再び宮殿内で変イ長調のバラード作品47を披露。音楽家としての地位は揺るぎないものになった。

チュイルリー宮殿オルレアン公爵邸の夜会 ラミによる水彩画21x32,5cm 1842
  • オルレアン公
    フェルディナン・フィリップ・ドルレアンFerdinand Philippe d'Orléans(1810 - 1842)はルイ・フィリップ王の長男。ショパンと同年代の王子は父王譲りの音楽好きで、1837年、プレイエルのピアノを購入。1838年のコンサートの翌月には、ショパンを宮殿内の自室に招き、お茶を共にしたという。1841年の宮殿コンサートでショパンが弾いたのはこの楽器。ルイ・フィリップ在位中の1842年、馬車の事故により32歳で死去した。

チュイルリー宮殿は1871年のパリ・コミューンで焼失したが、1区の約6分の1を占める22,4ヘクタールの庭園は健在。園内にはジュ・ド・ポーム美術館とオランジュリー美術館が存在し、夏には期間限定の移動遊園地も楽しめる。

チュイルリー宮殿の跡地に置かれたプレート。焼失前の宮殿の位置が示されている。
オランジェリー美術館
Musée de l'Orangerie
Jardin des Tuileries Place de la Concorde 75001 PARIS
M①⑧Ⅰ2 Concorde
+33 (0)1 44 77 80 07
+33 (0)1 44 50 43 00
開館時間 9H-18H( 入場は17h15 まで)
火曜閉館
Gratuit le1er dimanche du mois

1853年、チュイルリー庭園のセーヌ川沿岸に設けられたオランジュリー。
モネの連作『睡蓮』の収蔵美術館として整備され、1927年にオランジュリー美術館としてデビュー。
ヴァルテール=ギヨーム・コレクションをはじめ、モネ、セザンヌ、ルノワール、マティス、ピカソ、モディリアーニといった印象派、後期印象派の作品を収蔵する美術館として年間70万人が訪れる。改装の為、長らく休館していたが、自然光が差し込む、理想の展示会場として、2006年5月にリニューアル・オープン。年間70万人が訪れる。

ジュ・ド・ポーム国立美術館
Jeu de paume
[RER](C)Musée d'Orsay
Place de la Concorde
75001 Paris
火 11h~21h.
水~日 11h~19h.
月休

ナポレオン3世期に、チュイルリー公園のコンコルド広場に接する一角に建造された施設。ジュ・ド・ポームの名は、かつて建物内部に、テニスの先駆的スポーツであるジュ・ド・ポームの屋内コートが有ったことに由来する。1909年、ジュ・ド・ポームは、外国人作家による絵画作品を展示するスペースとなり、1930年代には、モディリアーニやピカソ、シャガール、藤田嗣治等、エコール・ド・パリの画家たちの作品を収蔵していた。1947年、ジュ・ド・ポーム美術館として開館。印象派の作品を多数展示するようになり、それらがオルセー美術館へ移管される1986年まで、印象派美術館の名で知られた。1987年、オーディオ・ビジュアルルームや図書室、カフェなどを新設し、1991年6月、ジュ・ド・ポーム国立美術館として、ミッテラン大統領臨席のもとに新装オープン。従来より専門としてきた近現代美術に加え、写真や映像芸術に特化した美術館として、注目のギャラリー。

ル・カルーゼル
Le Carrousel
194, rue de Rivoli 75001 Paris
M① Tuileries
+33 1 42 33 65 48
Cafécarrousel@gmail.com
6H~22H
パリで貴重な早朝オープン・カフェ。
時差で朝早く眼覚めてしまったらここへ。
食事のお薦めはボリュームたっぷりのシュークルート
ジョルジュ・カーン・スクエア
Square Georges-Cain
8, rue Payenne
75003 Paris

マレ地区のカルナヴァレ歴史博物館の裏手に佇む小さな公園。1923年に造られ、1931年に公開された。ジョルジュ・カーン(1856~1919)は1897年から1914年までカルナヴァレ博物館の学芸員を務めた画家・文筆家。
園内にはパリ・コミューン(1871)で焼失したチュイルリー宮殿の外壁(破風と柱)の一部やパリ市庁舎のバラ窓がひっそりと置かれている。中央の女性の裸体像は、ロダン(1840 - 1917)、ブールデル (1861–1929)とともに近代ヨーロッパを代表する彫刻家、アリスティド・マイヨール(1861~1944)による「イル・ド・フランス」 (1925)。

パレ・ロワイヤル
Palais-Royal
Domainenational du Palais-Royal 8, rue Montpensier
75001 Paris
+33 (0)1 47 03 92 16/+33 (0)1 47 03 92 16
+33-1-42-96-13-54
10/1~3/31
8H00 - 20H30
4/1~9/30
8H00 - 22H30
M①⑦ Palais Royal Musée du Louvre
M⑦⑭Pyramides

中世の面影と現代アートを同時に鑑賞できる、ルーヴル宮殿の北に位置する宮殿。回廊には、ジョルジュ・サンドもお気に入りだった老舗レストランやショップと共に、新しいカフェやブティック、画廊などが軒を並べている。ショパンが愛用していた手袋や、帽子を扱う高級ブティックも存在したらしい。柱廊は米映画『シャレード』の銃撃場面の舞台になったことでも有名。

ルイ13世の宰相、リシュリュー枢機卿所有の城館であったが、リシュリューが亡くなると王家に遺贈され、幼いルイ14世がルーヴルから移り住んだことからパレ・ロワイヤルと呼ばれるようになった。その後、ブルボン王朝の傍系、オルレアン家の手に渡り、ルイ14世の実弟オルレアン公フィリップ1世が居住。当時、多額の負債を抱えていたオルレアン公は、借金返済の為にパレ・ロワイヤルの庭園を囲むように建てた回廊スペースをカフェレストランやブティックの立ち並ぶショッピング・アーケードに改装。雨が降っても買い物が楽しめる、ガラスの天井に覆われたこの商業センターは大ヒットし、瞬く間にパリの消費の中心となって賑わっていった。オルレアン家はエリア内での警察の立ち入りを禁じたので、界隈は次第に娼婦やマフィアの巣窟となり、革命時には王制打倒を掲げる活動家の集会拠点になる等、あらゆる階層の行き交う無法地帯へと発展していった。その享楽ぶりは、バルザックの"幻滅"に詳しい。1830年の7月革命を機に、政府の方針が娼婦追放や賭博禁止へと定まると、パレ・ロワイヤルは急速に活気を失い、時代に取り残されたかのような静かな空間となった。近年、城内の一部には文化省や国務院が入り、中庭の広場にはダニエル・ビュランによる260本のストライプ模様の円柱や、ベルギー出身の彫刻家、ポール・ビュリイによる銀球体の噴水が設置され、散策を楽しむ市民の憩いの場となっている。

ダニエル・ビュランによる白黒のストライプの円柱『レ・ドゥ・プラトー』(1986)
ポール・ビュリイによる銀球体の噴水
『スフェラード』
モンパンシエ回廊57‐60番地
ピエール=ガブリエル・ベルトー作 Pierre-Gabriel Berthault 1804
1789年7月12日 パレ・ロワイヤルでのカミーユ・デムーランによる動議
Motion faite au Palais Royal, par Camille Desmoulins, le 12 juillet 1789

1784年から1874年まで、カフェ・ド・フォワ Café de Foyが存在していた場所。財務長官ネッケルの罷免でパリが騒然としていた7月12日、革命家のカミーユ・デムーランが「市民よ、武器を取れ!」と決起を促したのはこのカフェの屋外テーブルの上。民衆によるバスチーユ牢獄襲撃の発火点となった。

サル・リシュリュー
Salle Richelieu
Comédie-Française
Théâtre Français
place du Palais Royal 2,rue Richelieu 75002

南西側の宮殿に隣接した、890席のイタリア式劇場。1680年に結成された王立劇団『コメディ・フランセーズ』の本拠地として、1791年5月、オルレアン公ルイ・フィリップが開場。
1830年2月、ここで初演されたユゴーの『エルナニ』が客席の論争を呼び、フランス・ロマン派芸術の幕開けとなった。当時、パレ・ロワイヤルで多くの夜を過ごしていたショパンは、デュマやユゴーの芝居を目当てにサル・リシュリューへも足を運ぶ。サンドの劇曲『コジマ』が初演された1840年4月、リストやダグー夫人も姿を見せたが、客席はブーイングの嵐。サンドはこの失敗で多額の負債を抱え、ショパンも病に倒れた為、二人は夏にノアンへ帰らず、パリで創作に専念した。

パレ・ロワイヤルの静寂を好み、20 世紀を代表する女流作家、コレット(1873-1954)と詩人のジャン・コクトー(1889-1963)が暮らしていたことでも知られる。
ボジョレ通り9番地:コレットが1927年から1930年まで中二階に、1938年から自室で亡くなるまで庭に面した2階に住んでいたアパートの入口。
庭に面したコレットのアパート
コレットの記念プレート。葬儀は国葬として中庭で執り行われた。
モンパンシエ通り 36 番地:ジャン・コクトーが、1940 年から亡くなるまで執筆し、居住していたアパート。
近くの Radziwill 通りには、宮廷音楽家であった大クープラン(1668-1733)の終の棲家も。ポーランド出身のクラブサン奏者、ワンダ・ランドスカ(1879-1959)はショパンを19世紀のクープランと形容した。
トロワ・フレール・プロヴァンソ―(現存しない)
Restaurant des Trois frères provençaux (Emplacement – disparu)
Palais Royal
88 Galerie de Beaujolais
75001 Paris

リストやショパンもファンだった(!?)、パレ・ロワイヤル伝説のレストラン。1786年、プロヴァンス出身の3人の若者によって創業。シンプルで控えめな内装ながら、ワインと料理の質で着々と顧客を獲得し、1830年代、シャルパンティエによるネオ・ルネッサンスなインテリアで一世を風靡した。1836年5月21日、リストはここで、ドラクロワやショパン、マイアベーアを招いて食事したことを、ダグー夫人への手紙で綴っている。

ル・グラン・ヴェフール
Le Grand Véfour
17 rue de Beaujolais
+33 1 42 96 56 27
月~金 12時 – 14時半/20時 – 22時
土・日/休
M①⑦ Palais Royal-Musée du Louvre

オルレアン公の料理長からこのレストランの創業者となった、ジャン・ヴェフール(1784-1841 )の名を冠したレストラン。当時、パレ・ロワイヤルの繁盛店であった、カフェ・ド・シャルトルの後を受けて開業。創建当時からの建物とベル・エポック調の美しい内装は、フランス歴史建造物に指定されている。時の政界や文壇、アート界の第1線で活躍するセレブリティに愛されてきた店内にはジョルジュ・サ ンドをはじめ、ヴィクトル・ユゴーやアレクサンドル・デュマ等、常連客のプレートも。

フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。

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