ピティナ調査・研究

第4章-2 パリのポーランド社会

パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019
第4章-2
パリのポーランド社会

ショパンが到着した頃のパリには、ポーランド国内で国民政府の樹立を願って独立運動に参加し、その敗北によってロシアの官憲に追われてパリ亡命を余儀なくされた、 しい数のポーランド人たちが避難してきていました。

ショパンの時代のヨーロッパ(1835年頃)

ショパンは、ナポレオンによるワルシャワ公国統治時代に生まれ、ナポレオンの撤退後、ロシア帝国の支配下にあったワルシャワで青春時代をおくりました。そして、国内がフランスの七月革命に呼応して独立の気運が高まっていた時期にワルシャワを発ち、ウィーンの街へ到着した一週間後の 1830 年 11 月末に、ワルシャワ蜂起勃発の報せを受けます。ワルシャワ蜂起は、ポーランド市民がロシアによる属国状態から抜け出そうと、ワルシャワを中心に起こした武装蜂起でした。この蜂起は幾つかの地域で成功を収めたものの、結局は数の上で圧倒的に優位なロシア軍に制圧されてしまいます。

ショパンが到着した時期のパリには、この蜂起の結果、さらに強化されたロシアの弾圧から逃れようと、ポーランドの大貴族や政治家、軍人などが続々とパリに亡命してきていました。こうして、ショパンはパリという異国の地にありながら、国を代表するレベルのポーランド人たちに街角で出会い、彼らに囲まれて過ごすことが出来たのです。

中でも、ワルシャワ蜂起の求心的存在であったポーランドの亡命貴族、*チャルトリスキ公はパリの亡命ポーランド人社会の統率者となり、ポーランドの亡命者集団は彼を中心に多岐に渡る活動を展開しました。パリにポーランド人の為の学校や組織、施設が創られ、出版や報道が整備され、1832 年に亡命中のあらゆる芸術家を糾合する「ポーランド芸術協会」が発足すると、ショパンはいち早く入会して、協会の運営するさまざまな慈善活動に積極的に貢献します。

会員たちは、祝祭日を共にし、ことあるごとに集っては結束を固めていきました。ショパンは、独立を目指す政府派遣使節としてロンドンで西欧の支持獲得のために奔走していた、*プラター伯爵邸にも出入りして知己を広げます。「夫にはショパン、お友達なら*ヒラー、愛人にするならリスト」という台詞は、このプラター伯爵夫人の言葉です。プラター伯爵家はショパンを家族同然に扱い、才能ある青年音楽家たちの来訪をいつでも歓迎しました。また、ユダヤの大富豪、ロスチャイルド男爵家のサロンに招かれて演奏したのは、ショパンのワルシャワ時代からの庇護者のひとり、ラジヴィウ公の紹介でした。

アダム・イエジィ・チャルトリスキ
Prince Adam Jerzy Czartoryski(1770-1861)

ポーランドの 大貴族 、チャルトリスキ公爵家の長男。ロシア皇帝アレクサンドル1世の治世当初に企図された改革に参画し、1804年から1806年まで事実上の帝国宰相であるロシア大臣委員会議長を務めるが、次第に強まるロシア帝国の圧力に異議を唱え、ポーランドの独立を求める十一月蜂起の首班となる。蜂起の敗北後、1万人のポーランド人とともにパリに亡命し、ポーランド国家復活を願うパリの亡命ポーランド人によって結成された亡命政府の総裁として、ポーランドの自治権回復をロシアに働きかけた。ショパンの告別式では葬儀委員長を担う。1834年に出版されたショパン作曲ヘ長調の演奏会用ロンド「クラコヴィアク」作品14はチャルトリスカ公爵夫人、アンナに捧げられている。

アダム・イエジィ・チャルトリスキ公 ナダール撮影(1861頃)
ルードヴィク・ド・プラター伯爵
Ludwig de Plater (1775 -1846)

ポーランドの独立を目指し、パリに亡命したポーランド人によって組織された亡命政府の中心的存在。ポーランド芸術協会副会長。伯爵家に生まれ、ウィーン体制下で成立したポーランド立憲王国評議会のメンバーとなり、1830年、ワルシャワ蜂起勃発時にはパリでポーランド公使館の代表としてロシアからのポーランド解放を目指す。蜂起失敗後、財産全てを没収され、国を追われた伯爵はパリに留まり、チャルトリスキ公と共に国外からポーランドの独立運動を推進していく。また、夫人と共に若きショパンの才能を高く評価し、公私にわたり支援した。1832年に出版されたショパンの4つのマズルカ(作品6)は、伯爵家の娘、ポーリーヌ・プラター伯爵令嬢に捧げられている。

ル―ドヴィク・ド・プラター伯爵の肖像 フランソワ・ル・ヴィランによるリトグラフ
フェルディナンド・ヒラー
Ferdinand Hiller(1811-1885)

フンメル(1778-1837)に師事したフランクフルト生まれのユダヤ系音楽家。幅広い創造力に恵まれ、演奏、指揮、作曲、音楽学、教育等、音楽に関わるあらゆる領域で高い評価を得た。1829 年から 1836 年までパリに滞在し、ショパンをはじめ、リストやメンデルスゾーンらの知遇を得て、パリの若きヴィルトゥオーゾたちのひとりとして頭角を現す。フランクフルトに帰郷後も、自らが関わる音楽祭にメンデルスゾーンと共にショパンを招待し、生涯に亘る親交を結んだ。ショパンは『夜想曲作品 15』(1832 )をヒラーに献呈している。

1834年、ロシア皇帝は「ポーランド王」として、フランス領内に滞在中のポーランド人全員に旅券延長手続きの為のロシア大使館への出頭を要請しました。しかし、ショパンはこれに応じることなく、数年後にロシア政府から提案された「皇帝お抱え宮廷ピアニスト」の地位にも かずに、自らの運命は亡命者たちと共にあるという立場を 明確にしました。

チャルトリスキ公は、1843 年前後にフォブール・デュ・ロール通り(現在のフォブール・サントノレ通り)25 番地からサン・ルイ島のセーヌ沿いに位置するランベール館を買い取って、パリに暫定的に樹立したポーランド亡命政府の拠点とし、館内で頻繁に会合やサロンを開いたり、慈善舞踏会やポーランドの国民記念行事を取りまとめます。以後、ランベール館は、革命詩人と呼ばれた*ミツキェヴィチをはじめ、パリ在住のさまざまな分野で活躍するポーランド亡命文化人たちの中心となりました。ショパンもランベール館に毎週通っては、度々、演奏を披露しています。

アダム・ミツキェヴィチ
Adam Mickiewicz (1796 - 1855)

ポーランドを代表する国民的ロマン派詩人、思想家、政治活動家。
大学在学中にロシア帝国からの独立を志向する若者たちによる政治・教育地下組織の共同設立者の一員となり、1823年、ロシアによって逮捕。翌年、ロシア領内への追放刑を受けたが、1829年にロシア出国を承認され、ドイツのワイマールでゲーテに邂逅後、イタリアに向かい、ローマで代表作とされる叙事詩「パン・タデウシュ」を執筆。1832年に七月王政期のパリに移り、1834年7月にポーランドの女流ピアニスト、マリア・シマノフスカの娘と結婚して6人の子供に恵まれるが、夫婦関係はしだいに破綻し、家庭不和によって妻は精神のバランスを崩していく。ショパンはミツキェヴィチの詩に旋律を付けたり、1848年から1849年にかけての冬に、病んでいたミツキェヴィチを訪れ、ピアノ演奏によって彼の心を癒やしたという。ト短調のバラード作品23 は、リトアニアと十字軍の戦いの中で活躍し、最後に裏切り者として処刑された騎士の物語がモチーフになっている彼の詩にインスピレーションを得て作曲された。

アダム・ミツキェヴィチ 1842年頃
ランベール館

Hotel Lambert
2, rue Saint-Louis-en-l’Île
75004 Paris
M⑦ Sully - Morland
M⑦ Pont Marie

ルイ13 世の秘書官、ランベールの私邸として建築家、ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vau(1612-1670)によって設計され、1640 年頃に完成。1730年代にはフランスを代表する哲学者ヴォルテール(1694-1778)が滞在していたことでも知られる。その後さまざまな所有者を経て、1843年前後にチャルトリスキ家の居館となり、ポーランド国家復活を目指す政治亡命者たちの活動拠点となった。チャルトリスキ家以前の歴代所有者の一家族であった徴税請負人のデュパン家は、偶然にもショパンの恋人となるジョルジュ・サンドと縁戚関係にあたる。1975 年からの英財閥ロスチャイルド男爵家の所有を経て、2007年6月にアラブ湾岸カタール国の前首長の異母弟に売却。カタール首長家による大幅な改装計画が物議を醸しだすが、2013 年 7 月、改修工事に関連した事故による火災が発生し、所蔵絵画や建物の壁画、フレスコ画が大規模な損傷を受けた。現在、事故の修復は完了し、17世紀を代表するフランス建築の最高峰として、再びその美しい姿を、サン・ルイ島の東端に現している。ユネスコ世界遺産に登録。

チャルトリスカ公爵夫人はランベール館内にポーランド人女学校を設立し、浴場で女性専用のスイミング・スクールを開いた。
ランベール館の庭園内に造られた舞踏会場 1845年1月25日
テオフィル・クフィアトコフスキTeofil Kwiatkowski(1809‐1891)による油彩画
「ショパンのポロネーズ」ランベール館の舞踏会(1859)
ヘラクレス・ギャラリー
La Galerie d’Hercule
ランベール館ヘラクレスギャラリーでの慈善バザー

ランベール館の 2 階東側に位置した大回廊。
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間も担当したシャルル・ル・ブラン Charles Le Brun (1619-1690) による美しい天井画は 1842 年、ショパンの親しい友人、画家のドラクロワによって修復された。
チャルトリスキ家はここで、夜会や慈善バザーを主催し、ショパンも度々招かれて協力している。

ローザン館

Hôtel Lauzun
Quai d'Anjou 17
75004 Paris
M⑦ Pont Marie
M① Saint-Paul

ランベール館を手掛けたル・ヴォーによって 1657 年に建てられた館。1682 年から 1685 年にかけてここに居を構えたルイ 14 世の側近の名に因み、ローザン館と呼ばれる。内装は 17 世紀の個人宅としては最高の贅を極めた。チャルトリスキ大公家がランベール館を購入した翌年、詩集『悪の華』で知られるシャルル・ボードレール Charles Baudelaire(1821‐1867)が移り住み、奔放な芸術家の溜り場となる。ボードレールはドラクロワが死去した直後に『ウージェーヌ・ドラクロワの作品と生涯』(1863)を発表した。現在はパリ市所有。

La Société Historique et Littéraire Polonaise
Bibliothèque Polonaise de Paris

6, Quai d’Orléans
75004 PARIS
Tél. 01 55 42 83 83
Fax . 01 46 33 36 31
secretariat@bplp.fr
75004 Paris
M⑦ Pont Marie
M① Saint-Paul
水~土:14時15分 ~18時

ショパンが 1833 年から会員になっていたパリ・ポーランド歴史文芸協会本部。膨大な蔵書に加えて、フランスに移民してきたポーランド人たちの記録やポーランドが他国支配に対して提起したあらゆる文書のほか、貴重な美術品も保管されている。内部にはショパンやミツキェヴィチゆかりの品を展示した小さな博物館も。

サロン・ショパン
Salon F.Chopin

パリ・ポーランド歴史文芸協会内に設置されたショパンの部屋。
当時のピアノやショパンが亡くなった際、オークションにかけられた家具や調度品、肖像画などが展示されている。

フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。