第3章-2 サロンの流行
ショパンの時代、パリの社交界の中心となったのは、産業界で成功して富を得た、新興ブルジョワといわれる中産階級によるサロンでした。
サロンとは17世紀頃から発達した、宮廷や貴族の夫人の邸宅で互いの交流を深めるために開かれた社交の場です。
女主人 たちは「芸術の 庇護者 」としての役割を担うべく、文学や美術、音楽界のエリートたちを常連客として社交界をリードし、 女主人 に選ばれたメンバーたちはサロンに集って政治談議に花を咲かせ、芸術論を戦わせながらそれぞれの作風やパフォーマンスを確立していきました。ヨーロッパの新しい思想や文化はこの女性たちの開くサロンによって生み出され、わかりやすい会話や議論のなかで伝えられていったのです。
七月王政下では、大革命で亡命し、王政が復活した際に帰国して再開された王侯貴族によるサロンに、七月革命をきっかけに権力を増した裕福なブルジョワ階級によるサロンが加わって、パリ全体を 席捲 していました。当時のアーチストにとって、上流階級の夫人が主催するサロンに受け入れられることがパリでの成功の近道となり、サロンはロマン主義時代の文化現象のひとつとなりました。
ショパンのパリでの活躍の場となった音楽サロンは、フランス大革命後に不適切な一言でギロチン台に送られてしまうような深刻な政権に移行した際、談話を中心としたサロンが危険視され、言葉による影響を受けない、演奏を中心としたサロンが好まれるようになった時期をきっかけに発展しました。
七月革命の余熱の残る七月王政下のパリのサロンにおいても、さまざまな思惑や駆け引きが横行し、不穏な空気が流れていたことから、音楽はその場の緊張を和らげる必要不可欠な存在となり、ピアノはサロンの必需品として、演奏家はそれを活かす貴重な人材として、歓迎されるようになりました。
音楽サロンは楽器を演奏するための広い空間と、音楽家への報酬を必要とする最も経費のかかる、 女主人 たちの財力を誇示するステイタスとして急速に広がり、19世紀ヨーロッパの音楽界を左右するに至ります。
ショパンをはじめ、当時のコンポーザー・ピアニストはこの音楽サロンを拠点とし、批評家や出版者と交流して情報を得ながら政財界のトップと親交を深め、支持者や後援者を増やしたり弟子を獲得して、それぞれの活動の基盤を固めていきます。サロンは音楽家にとって、自分の腕前を披露するだけでなく、あらゆるチャンスと出会う特別な場所でした。
また、それまでの音楽家はたいてい宮廷か政府か教会関係のいずれかに属し、契約には必ず老齢年金と遺族年金が含まれていましたが、雇用者としての貴族の宮廷が衰退し、度重なる革命で市民階級が台頭し始めると、市民生活における演奏団や合唱団が増加し、多くの音楽家が専門教育に必要とされて、市民の管轄化に組み込まれるようになります。さらに、ロマン派の時代になると芸術至上主義の風潮から音楽家の職業価値は高くなり、音楽家の需要は増え続ける一方でその保障制度はなかなか確立せず、19世紀半ばから音楽家を擁護する組合や団体が誕生するものの、本格的には浸透していませんでした。
こうした状況の中、音楽サロンは貴族が音楽家を庇護した時代と音楽家の協同組合が整う時代の空白を生める、福利厚生施設の機能をも果たします。サロンの女主人たちは才能ある音楽家を育て、地元の音楽活動を支援するばかりでなく、慢性的に資金に困窮していた音楽家達を個人的に保護したり、病気の場合には看護したり、演奏旅行中の名演奏家に対しては宿や食事を無償で提供したりしました。
音楽の才能に加え、 女主人 の心を掴む 術 をも心得ていたショパンは瞬(またた)く間にパリの 社交界 を征服し、姿を見せさえすれば熱狂されるサロンを常時20箇所から30箇所抱え、一晩に何軒もの屋敷を訪問して演奏することもあれば、ひとつのサロンを選んで明け方まで過ごし、ひと晩に30フラン前後を受け取って生活の糧としていました。勿論、自己宣伝が必要な時や新たな人脈を開拓したい時、例外的な友情によって依頼された場合には無償でも演奏します。サロンでの出会いを通じて多くの上流階級の子女が、ショパンにレッスンを申し込みました。
ショパンがロスチャイルド男爵家のサロンに招かれて演奏した際、男爵夫人からピアノ指導を依頼され、高額な報酬を約束されたことをきっかけに、パリでピアノ教師として活動するようになったことは有名なエピソードになっていますが、永遠のライヴァル、リストと出会ったのはポトツカ伯爵夫人のサロン、長年の恋人となる 6 歳年上の女流作家、ジョルジュ・サンドと出会ったのは、当時リストの恋人であった*マリー・ダグー伯爵夫人が主催していた音楽サロンでした。1835 年にリストと駆け落ちしてスイスへ旅だったマリー・ダグー伯爵夫人は、翌年、パリに戻るとラフィット通り 23 番地(現在のラファイエット通りとの交差点)にあったフランス館に居を構え、ほどなく同じ館内に移転してきたジュルジュ・サンドと共同でサロンを開いていたのです。ここにはリストやショパンをはじめ、作曲家のベルリオーズやドイツの詩人、ハインリッヒ・ハイネ、ショパンがバラードを 作曲する際にインスピレーションを得たポーランドの亡命詩人、ミツキエヴィチや、その頃リストが傾倒していた思想家ラムネらが常連として訪れ、お互いの創作意欲を刺激し合う、画期的な空間を形成していました。
Comtesse Marie-Sophie d'Agoult(1805-1876)
年下の音楽家フランツ・リストと駆け落ちして3人の子供を生んだ、富と知性と美貌に恵まれた伯爵夫人。音楽や絵画などの芸術から政治・社会の問題まで鋭く洞察し、リストとの生活が破綻した後、ダニエル・ステルンのペンネームで文筆活動を開始。リストの恋人としてだけではなく、貴族階級の偏見を乗り越え、その後、鬱病という障害を抱えながらもフランス二月革命に関する優れた歴史書『1848年革命史』を執筆した。
ショパンは『Etudes Op.10』(1833)をリストに、『Etudes Op.25』(1837)をマリー・ダグー夫人に献呈している。パリに没し、ショパン同様、ペール・ラシェーズ墓地に眠る。
ジョルジュ・サンドの回想に依ると、ショパンの存在と才能は、人数の多い格式ばった社交界より、少人数のサロンにおいて最も光輝いたようです。ショパンの珠玉の名作のほとんどは、サロンという親密な空間で演奏されることを想定して作曲され、作品に内包されたショパン固有の知的で洗練された美意識は、サロンという親密な空間においてこそ、その効果を発揮したのでしょう。こうして、社交界の寵児と謳われたショパンのパリでの生活は名実共にサロンを舞台に展開していきました・・・
ベートーヴェンの胸像を据えたピアノに向かっているのがリスト、傍らに座っているのがマリー・ダグー伯爵夫人、椅子に座っているが男装のジョルジュ・サンド、その左に座るのがアレクサンドル・デュマ、その後ろに立つのがヴィクトル・ユゴー、中央に立つ二人組みがパガニーニ(向かって左)とロッシー二(向かって右)その後ろはバイロンの肖像画。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。