第3章-1 ショセ・ダンタン5番地
5, rue de la Chaussee d'Antin 75009 Paris
M⑦⑨ Chaussee d'Antin La Fayette
隠れ家のようなシテ・ベルジェール住まいは狭くて日当たりが悪く、夏の蒸し暑さにも閉口していたショパン。ショセ・ダンタン5番地の高級アパートに住むヘルマン・フランク博士というドイツ人科学者と知り合った彼は、博士の留守中、度々、アパートを使う許可を得ました。当時、ショセ・ダンタンは地理的な意味の外(ほか)に、金融界や実業界で成功した裕福なブルジョワ階級の居住区としてパリで最も繁栄し、さらに変貌を遂げる新しい富と権力を象徴するエリアでした。
博士のアパート解約をきっかけに、ショパンはワルシャワからの古い知り合い、アレクサンダー・ホフマン医師をルームメイトとして、秋に正式に移転し、室内に洗練された趣味の家具と高価な調度品を入れ、名実共に上流社会の仲間入りを果たします。
ホフマン医師は主治医として、保護者として、ショパンの健康管理に気を配る理想的な同居人でしたが、やがて地方に職を得てパリを離れていきました。代わりに、ワルシャワ時代の同級生でパリの医科大学に就職が決まったばかりの若き医師、ヤン・マトゥシンスキがショパンの新しい同居人になります。
18 世紀に、女流作家 Louise d'Épinay(1726–1783)が、恋人のグリム男爵(1723–1807 と建物の一部にサロンを開き、1778年にパリを訪れたモーツァルトを 5 カ月間招き入れた伝説の館。ショパンは同邸宅の一部のアパートをポーランドの友人医師とシェアし、パリ・セレブリティの一員に。
フランスでは、イギリスに追随する産業革命により、七月王政下の1830年から1840年代に繊維業が好景気を迎えてファッション産業と結び付き、在庫を抱えた流行商店が百貨店の前身としてショセ・ダンタン周辺の大通りやパッサージュのアーケードに立ち並んで華やかな流行を生み出していきました。このバザールが生まれた界隈は、現在もパリの重要なショッピング・スポットとして健在です。
40, Boulevard Haussmann
75009 PARIS
+33 (0)1.42.82.34.56
月曜日〜土曜日 9:30 ~ 20:30
日 曜 日 11:00 ~ 19:00
グルメ館
35, Boulevard Haussmann
75009 PARIS
+33 (0)1.40.23.52.67
月曜日〜土曜日 8:30 ~ 21:30
日 曜 日 11:00 ~ 19:00
japandesk@galerieslafayette.com
M⑦⑨ Chaussee d'Antin La Fayette
[RER](A) Auber
[RER](E) Haussmann–Saint-Lazare
1893 年創業。ショパンが住んでいたショセ・ダンタン通り沿いにある、パリ最大規模のデパート。従兄弟関係にあったアルザス出身の二人の若者がラファイエットとショセ・ダンタン通りの交差点に流行品を扱う婦人小物店をオープンしたのが前身。通りの名前と店のレイアウトから、 Aux Galeries Lafayette (ラファイエットにあるギャラリー式の店)と呼ばれた。最寄りサン・ラザール駅を利用する、地方からの買い物客によって売り上げは急速に伸び、広さも品揃えも順調に拡大されて今日の規模となる。現在、本館、紳士館、メゾン/グルメ館の 3 つに分かれ、それぞれの目的に応じてショッピングが可能。クリスマス・シーズンには、趣向を凝らしたショーウインドーのデコレーションが、季節の風物詩となっている。
64, Boulevard Haussmann
75009 Paris
+33 (0)1 42 82 50 00
M⑦⑨ Chaussee d'Antin La Fayette
[RER](A) Auber
[RER](E) Haussmann–Saint-Lazare
9:35~20:00(木:~20H45)
日:11:00~19:00
1865年創業の老舗百貨店。「百貨店」という、当時未だ革新的な概念を生み出し、ジャンルを超えた品揃えや定価での販売、電気照明やエレベータ―の導入によって、常に新しいスタイルを打ち出し、パリのショッピング・スポットの代名詞となった。美しい建物の外観は、1975年、歴史的建造物に指定されている。現在、レディス専門のモード館、インテリアを扱うメゾン館、メンズ専用のブルンベルの3館に分かれ、おしゃれなカフェやブラッスリーなどの飲食施設も充実。モード館6階の窓からエッフェル塔が間近に見える美容室、文化財に指定されているクーポールが鏡越しに見られるブラッスリー・プランタン、メンズ館の屋上にはテラス席が有り、7&8階のレストラン&エピスリーフロアの食材がパリの街を一望しながら味わえる。
作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。
クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。
ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。