ピティナ調査・研究

第2章-2 オペラの全盛

パリ発~ショパンを廻る音楽散歩2019
第2章-2
オペラの全盛

ショパンが到着した19世紀前半のパリは、ヨーロッパの代表的なオペラ都市としての黄金期を迎えていました。

市民の絶大なる支持のもとに劇場と作曲家の重要なレパートリーとなりました。軽妙で喜劇的なオペラ・コミックに対し、グラン・オペラという、豪華絢爛な舞台装置にバレエや合唱を加えた様式が新たに生まれ、さまざまな国籍のオペラ作家がパリを拠点にダイナミックに活躍していきます。

中でも、ドイツ出身のマイヤベーアとイタリア生まれのロッシーニの人気は圧倒的で、モーツァルトの死の翌年に生まれたロッシーニの評判はロマン派初期のヨーロッパ全土を駆け廻り、ベル・カント(鳥がさえずるように軽やかに、美しく歌う)唱法の巨匠としてロッシーニ旋風を巻き起こしていました。

ジョアキーノ・ロッシーニ
Gioachino Rossini(1792-1868)
ジャコモ・マイヤベーア
Giacomo Meyerbeer(1791-1864)

ロッシーニは1824年から1836年に至る最後の活動期をイタリア座の総支配人としてパリに定住し、本質的には古典派として、当時の主流になりつつあったロマン派の理念や題材に18世紀の精神と思想を導入して継続させようと考えていた作曲家でした。彼は、1829年にパリで初演されたオペラ『ウィリアム・テル』において、管弦楽を駆使した斬新な手法でロマン主義的色合いや雰囲気を表現し、その後のフランス・グラン・オペラに多大な影響を与えることになりました。ロッシーニはコロラトゥーラ(ソプラノによって表現されるトリルのような技巧的で華やかな装飾)の究極美を追及すると同時に、朗唱的な表現に重点をおいたレチタティーヴォ(物語の展開を説明するために語るように歌われる部分)にも豊かな音楽的生命を吹き込み、モーツァルトが展開したオペラ・ブッファの伝統を継承しながらも初期ロマン派に位置づけられる重要なオペラ作家として、その名を永遠に音楽史上に留めました。

一方、ドイツに生まれ、1825年以降、パリへ活動の場を移したマイヤベーアは、国から多額の補助金を得ることに成功したルイ・ヴェロン※1の新しい経営方針の下、大規模な舞台装置とオーケストレーションによる5 幕オペラ『悪魔のロベール』や『ユグノー教徒』等の、典型的なグラン・オペラを発表し、フランス・グラン・オペラの立役者として1大センセーショナルを捲き起こします。彼は、ドイツの重厚な和声とイタリアのベル・カント風の旋律を得意とし、スター歌手による声の饗宴と作品のスケールの大きさで興行的にも大成功を収め、当時のフランスで最も影響力のある、オペラ作家となりました。

イタリア劇場内部~出演者への喝采~(1842)E.ラミによるリトグラフ イタリア劇場内部~出演者への喝采~(1842)E.ラミによるリトグラフ
※1
ルイ・ヴェロン
Louis Véron(1798-1867)
1831年より、政府の助成金による運営を委ねられた初代のオペラ座総監督。
音楽には疎いジャーナリスト出身であったが、芸術や創造性よりも、演出や装置の目新しさで一般大衆の関心を集め、オペラを興行的に採算に合うものに仕立て上げた。

オペラは主にイタリア座、国立オペラ座、オペラ=コミックの3つの劇場で上演されていました。イタリア座は特権階級が通うパリで最もエレガントな劇場として、貴族の社交サロン的な役割も果たしながら、10月1日から3月いっぱいの火、木、土の曜日にイタリア・オペラを、ブルジョワ階級も集う国立オペラ座ではもう少し長い6月前後までを公開シーズンとして、毎週月・水・金・日の曜日にグランド・オペラを上演していました。女性客は流行のドレスに身を包み、香水の香りを漂わせながら、幕間に歌い手や作品の評価と社交界の噂話に花を咲かせ、お互いに情報交換するのが常でした。ボックス席は10 フラン前後。社交界の名士たちは、たいていこのボックス席をひとつ、定期会員として年間契約していました。それに対して、オペラ=コミック座は、上流階級に反発する中流ブルジョワたちを常連に、フランス風エスプリを湛えた国内作品のみに限定して上演しています。

終演後のオペラ座(1842)E.ラミによるリトグラフ 終演後のオペラ座(1842)E.ラミによるリトグラフ

ショパンが早い時期からオペラに親しみ、パリでは毎晩のように足繁く劇場に通って声のヴィルトゥオーゾたちに心酔していたことは友人や家族宛ての手紙を通して窺い知れますが、私生活においても、彼の身近には常に歌姫の存在がありました。『ピアノ協奏曲第2 番』の2 楽章はワルシャワ音楽院の声楽科に在籍していた初恋の相手、コンスタンツィア・グウァドコフスカへ※2のラヴ・レターといわれています。また、生涯の友情を結ぶプリマ・ドンナのヴィアルド※3やショパンの臨終に駆けつけ、彼に請われて歌ったと伝えられているパリでのショパンの後見者のひとり、*デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人※4も素晴らしい声の持ち主でした。

※2
コンスタンツィア・グワトゥコフスカ
Konstancja Gladkowska (1810-1889)
ポーランドのワルシャワ音樂院で出会った初恋の人。
声楽科の学生で、ショパンは彼女への想いを込めて『ワルツ 作品70 の3 』、『ピアノ協奏曲ヘ短調 』のラルゲット(第二楽章)を作曲したといわれている。
ショパンのポーランド出国前のワルシャワ最後の演奏会に賛助出演し、出国後も親友を通して文通を続けるが、ロシア軍のワルシャワ侵攻による国情の悪化で音信不通に。国内でソプラノ歌手として活躍しつつあったが、若くハンサムで富裕なユゼフ・グラボフスキ(1804-1878)の二度目の妻となり、オペラ界を去ってスケルニェヴィツェ県の夫の所領地ラドゥチに移り住む。不幸にも36 歳にして視力を失うが、79 歳の長寿を全うし、後年、ショパンが自分に想いを寄せていたことを知って深く驚いたという。
※3
*ポーリーヌ・ヴィアルド
Pauline Viardot(1821-1910)
スペインの著名なオペラ歌手の家庭に生まれ、父のマヌエル・ガルシアにピアノと声楽の手ほどきを受ける。美貌のソプラノ歌手、姉のマリア・マリブランの陰に隠れがちであったが、彼女が 夭折 すると本格的にプロとしての研鑽を積み始め、1839年にロンドンでロッシーニの歌劇《オテロ》のデズデモナ役により正式にオペラ・デビュー。グノーやマイヤベーア、ベルリオーズ、サン=サーンスらを魅了し、1840年に、21歳年上の作家でパリ・イタリア劇場の監督、ルイ・ヴィアルドと結婚。夫妻で 度々サンドの実家、ノアンの館を訪れ、ジョルジュ・サンドは彼女からインスピレーションを得て、小説『コンスエロ』(1843年)のヒロインを創作している。夫のマネジメントに支えられて音楽活動を続けるが、恵まれた広い声域と演技力によって男性崇拝者は絶えることなく、ロシアの文豪、ツルゲーネフは、1843年に《セビリアの理髪師》のロシア公演をきっかけに彼女に恋焦がれ、2年後に彼女を追ってロシアからパリのヴィアルド家に入り、ヴィアルド家の4 人の子供の世話をしながら、生涯、ポーリーヌの信奉者であり続けた。一方、彼女はあらゆる人脈を駆使してツルゲーネフの作品を世に出すことに助力する。作曲家を自認することはなかったが、ショパンのマズルカを歌曲に編曲したものや、グルックのアリアをピアノ伴奏用に書き換えたものも遺している。1863年に舞台から引退。夫ルイがナポレオン3世に反対する立場を公にしたため、ヴィアルド家はフランスからドイツのバーデンバーデンに亡命するが、ナポレオン3世が失脚するとフランスに戻り、ルイ・ヴィアルドに先立たれる1883年までパリ音楽院で教鞭を執りつつ、サン=ジェルマン大通りの自宅で音楽サロンを開く。1910年、愛する家族に看守られて息を引き取り、モンマルトル墓地に埋葬された。パリ近郊ブージヴァルBougival のヴィアルド邸(Villa Viardot)は、ツルゲーネフからのヴィアルド家への贈り物(1874)で、多くの音楽家や画家、詩人が訪れている。
※4
デルフィナ・ポトツカ伯爵夫人
Delfina Potocka(1807-1877)
類稀な美貌と知性で社交界の華であったポーランドの貴族女性。
夫であるポトツキ伯爵と別居後は他国に移り、フランス到着後のショパンにピアノの指導を受け、祖国を離れたポーランド人同士として深く共感し、生涯に亘る親交を結んだ。『ピアノ協奏曲 ヘ短調』、『小犬のワルツ 作品64 の1』は彼女に献呈されている。フランスに客死し、モンマルトル霊園に眠る。

パリでショパンの自宅を訪ねたマイヤベーアが、ショパンの4分の3拍子のマズルカを4分の2拍子と主張して言い争ったエピソードは、今なお語り継がれていますが、パリ到着後、ショパンはマイヤベーアやロッシーニ、ベッリーニ※5などのパリを代表する花形オペラ作家と相次いで知遇を得ていました。しかし、当時の作曲家のほとんどがパリでオペラを上演して成功することを夢見ていたにもかかわらず、また、祖国ポーランドを代表するような国民的オペラ作家になって欲しいというワルシャワ音楽院での恩師、エルスナーの願いも空しく、ショパンは生涯、一曲もオペラを残さず、代わりにオペラからヒントを得たさまざまな声楽のテクニックをピアノという楽器を通して表現する道を選びました。ショパンの作品には、イタリア・オペラのベル・カント唱法を思わせるメロディーの合間に、あたかもコロラトゥーラ・ソプラノによる転がす様なパッセージが随所に散りばめられ、メロディーと同等の価値を放って輝いています・・・

※5
ヴィンチェンツォ・ベッリーニ
Vincenzo Bellini (1801-1835)

シチリア島に生れ、パリ近郊で没した19世紀前半のオペラ界を代表する作曲家。音節に忠実な、長く曲線的な旋律線による濃密で郷愁帯びた表現に定評がある。ショパンはベッリーニの作品に深い感銘を受け、コロラトゥーラを完全に記譜してベル・カントの価値を高めた彼の手法に深く影響されながら、ピアノ曲の分野で独自の作風を確立していった。

サル・ル・プルティエ
プロヴァンス通りから見たプルティエ通りのオペラ座(1821)
Salle Le Peletier
rue Le Peletier
75009 Paris
(M)⑧⑨Richelieu Drouot

ショパンが通ったオペラ座。
1820年2月、ルイ18世の甥、ベリー公が、当時のオペラ座本拠地、リシュリュー通りのSalle Montansierでの観劇後に暗殺。この事件をきっかけに、より安全性の高い立地へのオペラ座移転の必要が高まり、1821年8月、建築家のフランソワ・ドゥブレFrançois Debret(1777‐1850)設計による新しい歌劇場がル・プルティエ通りにオープン。当初は、本格的なオペラ座の建設地が正式に決定するまでの、仮のオペラハウスとして一時的に開場されたが、結果的には1873年10月、原因不明の火災で全焼するまで、52年に亘り、オペラやバレエの上演と共に、パリを代表する社交界の中心的スポットとして重要な役割を果たした。

ドゥブレによるル・プルティエ・オペラの建築図面(敷地図、平面図、舞台の内部透視図)1821
Alexis Donnet (1782–1867)、J. Alexis Orgiazzi (1799–1839)、両著による『パリの劇場建築学Architectonographie des théâtres de Paris』第2巻の図版20より。
劇場はオテル・ド・ショワズールの庭園内に建てられ、既存の建物はオペラハウスと結合して舞台の設備や管理に使用された。
Georges Cain(1856-1919)著 A travers Paris P.338に掲載されたAtlas Vasserot (1836)からの抜粋。 劇場の入り口は現在のル・プルティエ通り12-14番地辺り。
ジャコモ・マイヤーベーア作曲『悪魔のロベール』 の初演公演(1831年11月21日)。

新しい歌劇場では水素ガスによる照明や最新の舞台効果が演出され、1800人ほど収容できた会場は広く心地良い、リラックスできる空間で、音響の素晴らしさにも定評があったという。また、大規模な舞踏会や祝賀会にも対応できるように、舞台のスロープやオーケストラ・ピットが取り外せる仕様になっていた。

パリ・オペラ座 ガルニエ宮
Opéra nationale de Paris
Palais-Garnier

8, Rue Scribe 75009 Paris
M③⑦⑧ Opéra
(RER)(A)Auber
見学開館日:10:00~16:30
※7月中旬~9月中旬は18時まで
臨時閉館日については、事前にHP 等で確認のこと。
閉館日:1/1、5/1
téléphone au 0 892 89 90 90 (0,35 € la minute)
海外からは+33 1 71 25 24 23 (月—土)9時~19時

ナポレオン3世による19世紀後半の大規模なパリ都市改造計画の象徴としてシャルル・ガルニエの手で完成。1875年の開場以来、壮麗な外観、色彩豊かな大理石やゴールドの絢爛豪華な装飾でヴィジターを魅了してきた、現在のパリ・オペラ座(2081席)。舞台のみならず、観客も観られるようにデザインされている。

常連客のロトンダ(Rotonde des Abonnés) かつて常連客を迎え入れた円形ロビー様々な色の大理石から成る美しい床を持つ。ロトンダとは、ドームのある円形建築又はドームをもつ大広間。丸天井に潜んでいるのは、オペラ座の設計者、CHARLES GARNIER(シャルル・ガルニエ)の名前とオペラ座の落成年、1875 の文字。
ピューティア(巫女)の泉 ピューティアはギリシャ神話に登場する詩歌や音楽などの芸術の男神アポロンの女神官。
オペラ座の正面入口
オペラ座の大階段
光のブーケを手にした2 体の女性像台座下の炎の蜥蜴(サラマンダー) 当初の照明は電気ではなく、ガス灯であったために、ガス管を隠す目的で存在した。
ガストン・ルル―作"オペラ座の怪人"に登場するボックス席 5番ボックスは2階の舞台に向かって左の一番奥。 LOGE DU FANTOME DE L'OPERA(オペラ座の怪人ボックス席)と書いたプレートが張られている。
オペラ座のボックス席 馬蹄形の美しい客席は、宝石箱をイメージして全体を赤いビロードに覆われている。
オペラ座の緞帳 馬蹄形の美しい客席は、宝石箱をイメージして全体を赤いビロードに覆われている。
シャガールの天井画
当時の文化大臣、アンドレ・マルローから委嘱されたシャガールの天井画は、フランスの画家Jules Eugene Lenepveu(ジュール・ウジェーヌ・ルヌヴー)によるオペラ座完成当時の天井画の上に貼り付けられ、1964年9月23日に除幕された。シャガールは5色に区分された各区画に、以下の14 名の作曲家によるオペラやバレエの場面を描き込み、さらにパリの代表的なモニュメントを散りばめ、19世紀の佇まいに20世紀の新しい風を導入することに成功した。
  • ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」
  • ベルリオーズ「ロミオとジュリエット」
  • ベートーベン「フィデリオ」
  • モーツァルト「魔笛」
  • ヴェルディ「ラ・トラヴィアータ」
  • チャイコフスキー「白鳥の湖」
  • ストラヴィンスキー「火の鳥」
  • ラヴェル「ダフニスとクロエ」
  • ドビュッシー「ペレアスとメリサンド」
  • ラモー(作品不詳)
  • ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」
  • グルック「オルフェとユリディス」
  • ビゼー「カルメン」
  • アドルフ・アダン「ジゼル」
尚、1872年に制作されたJules Eugene Lenepveu(ジュール・ウジェーヌ・ルヌヴー)(1819-1898)による天井画Les Muses et les Heures du jour et de la nuit は、オペラ座内部の図書博物館や、オルセー美術館にて複製を鑑賞できる。
Jules Eugene Lenepveu
(ジュール・ウジェーヌ・ルヌヴー)
Jules Eugene Lenepveu(ジュール・ウジェーヌ・ルヌヴー)による天井画 ピューティアはギリシャ神話に登場する詩歌や音楽などの芸術の男神アポロンの女神官。
ベルリオーズの胸像
アイスクリーム屋のギャラリー 幕間にアイスクリームを供していた、明るく清々しい円形サロン。周囲はバッカスの巫女や牧神の装飾で彩られ、タピスリーには飲み物や釣り、狩の場面が描かれいる。オペラ座のオープン後に完成され、ベル・エポックの美学が集約されている。
太陽のサロン 太陽の光の中心には、炎を象徴する蜥蜴(サラマンダー)。
月のサロン 冷たさを感じさせる銀色のサロンに、闇のシンボル、蝙蝠と梟が舞い、夜の世界を演出する。
大回廊の前の通路の天井画 金を基調に煌びやかなモザイクが施されている。
大回廊 メインモチーフの竪琴が空間全体に統一感を与え、窓と鏡がさらなる空間を演出する。豪華絢爛なグラン・フォワイエ=大広間。高さ18m、幅13m、長さ154mの空間が、鏡と窓の効果でさらなる広がりを感じさせる。メインモチーフである竪琴が、全体の装飾に統一感を与える。
メインモチーフの竪琴 金を基調に煌びやかなモザイクが施されている。
涼廊 オペラ大通り(アヴェニュー)が見渡せるピンクと白い大理石で覆われたバルコ二―
図書博物館 金を基調に煌びやかなモザイクが施されている。
Bibliotheque-Musee de l'Opera
オペラ座に併設された図書博物館。開館時間は月曜日から土曜日の10時から17時まで。1669年以降オペラ座で上演された演目の楽譜すべてと、ダンス・歌・音楽に関する資料8万冊が収められている。
オペラ・バスティーユ
Opéra Bastille
Place de la Bastille
75012 Paris
M①⑤⑧Bastille
ウルグアイ系カナダ人の建築家、カルロス・オットーによるモダンでスタイリッシュな設計。

一方、より近代的な機能を備えた迫力あるステージで聴衆を魅了しているのは1989年7月に新しく誕生したオペラ・バスティーユ(2700 席)。
フランス革命200年を記念し、革命勃発の地であるバスティーユ広場に建設された。
初公演は1990年3月17日、ベルリオーズのオペラ『トロイアの人々』。
世界最大の9 面舞台を持ち、上演中でも他の演目のリハーサルができる様、ステージは遮音壁で区切られている。
演目はこの2つのオペラ座で分担して上演され、シーズンは9月下旬に始まり、翌年の7月中旬に終了。年間プログラムは例年4月頃にオペラ座のホームページにアップされる。

サル・ヴァンタドール
かつてのイタリア座
Salle Ventadour
Ancien Théâtre des Italiens

3 rue Dalayrac(rue Méhul)
75002 Paris
M③ Quatre-Septembre
M⑦⑭ Pyramides

1829年に建てられたジャンージャック・マリー・ユヴェの設計による幅34,5 メートル、長さ52 メートルの1700 席の長方形の劇場で、正面の通りの名からサル・ヴァンタドールと呼ばれた。パリで最も優雅な劇場として名高く、馬蹄形の美しい客席や贅を凝らしたロビーと階段の造りとは劇場というよりサロンのような趣。ここのボックス席を購入することが常連客のステイタスとなっていた。
現在はフランス銀行の社員食堂。馬車から雨に濡れずに会場へ入れるようになっていた外観は昔の面影を偲ばせるが、当時の栄華を思うとなんとなく侘しげな雰囲気も感じられる旧イタリア座。

オペラ・コミック サル・ファヴァール
Théâtre national de l'Opéra-Comique
Salle Favart

Place Boieldieu
75002 Paris
TEL:+33 (0)8 25 01 01 23
予約+33 (0)1 42 44 45 47
M⑧⑨ Richelieu-Drouot
M③ Quatre-Septembre

1783年に創設され、劇作家で初代の支配人だったシャルル・シモン・ファヴァール氏の功績に敬意を表して、サル・ファヴァールと呼ばれた。
主としてイタリア座の上演劇場であったが、ショパンは此処で1833年の4月2日に、ベルリオーズが熱愛していた女優、ハリエット・スミッソンの事故の為に開いた救済演奏会でリストと共演し、1835年4月5日にはチャルトリスカ夫人の主催による亡命ポーランド人のための慈善演奏会で『ピアノ協奏曲ホ短調』を演奏している。1838年に焼失した後、1840年よりオペラ・コミック座の本拠地となる。1887年の2度目の火災によって再び焼失し、現在の建物は1898年に開場したベルニエLouis Bernier 設計による1330 席の劇場。2005年1月、オペラ=コミック座は、国立オペラ=コミック劇場(Théâtre national de l'Opéra-Comique)となり、その演目はオペラや演劇からコンサートまで、多岐にわ たる。

フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。

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