ピティナ調査・研究

第1章-2 7月革命の余熱

第1章-2
7月革命の余熱

ショパンがワルシャワで幸せな幼年期を送っていた1814年以降、パリではルイ18世による、フランス大革命以来の王政が復活していました。ルイ18世というのは、大革命でマリー・アントワネットと共に処刑されたルイ16世の弟で、かつてプロヴァンス伯と呼ばれていた人物です。1789年の大革命によって共和制に移行したフランスは、ナポレオンの出現によって軍事独裁政権となります。ナポレオンは縦横無尽に活躍し、ヨーロッパ中を征服しますが、次第に勢力を弱め、周囲の圧力によって退位を迫られます。ナポレオンによって混乱したヨーロッパの後始末をするために、近隣諸国が開いたのがウィーン会議です。この会議によってフランス国内を再生するために諸外国から支持を受けたのが、ブルボン王朝直系のルイ18世による王政の復活でした。

ルイ18世は、即位後間もなく新憲法(憲章)を発布して立憲君主制を敷き、大革命時に追放された貴族の復帰を助ける一方、労働者や農民などの下層階級に対しても穏和な政策を取ることで国内の安定に努めましたが、後継者と目されていた弟のアルトワ伯の次男、ベリー公の暗殺事件をきっかけに、 亡命貴族 エミグレ によって組織されていた 過激王党派 ウルトラ が反動政策を推し進め、絶対王政を復活させてしまいます。

さらに、1824年にルイ18世の後を継いだ弟のアルトワ伯がフランス王・シャルル10世 を名のり、まるで大革命以前の状態に逆行するような貴族や聖職者を優遇する政策を とり始めて、新興ブルジョワと呼ばれる中産階級や一般市民の反感を高めます。シャルル10世は、それに拍車をかけるように1830年の7月に出版の自由を停止し、大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発しました(七月勅令)。この勅令に反発した民衆が立ち上がって3日間にわたる武装蜂起によって王政を倒したのが、七月革命です。ショパンがポーランド出国を目前に控えた年のことでした。

ルイ 18世(1755-1824) プロヴァンス伯の称号で呼ばれ、1814年に王政復古を果たしたブルボン朝第 6代の国王。フランス大革命後はドイツに亡命。 1814年から1824年にかけて、フランス王として在位した。
アルトワ伯=シャルル10世 (1757-1836) ルイ15世の孫。ルイ16世、ルイ18世の末弟。 ハンサムながら軽薄で、国の財産を浪費したマリー・アントワネットの遊び仲間として民衆にひどく憎まれていた為、フランス大革命勃発と同時に亡命。 1814年のルイ18世による王政の復活により帰国し、 過激王党派 ユルトラ の指導者となる。 ルイ18世の死後、1824年から1830年にかけて、フランス国王、シャルル10世として在位するが、言論や被選資格者を制限して周囲の反感をかい、七月革命勃発後はイギリスに逃れ、その後、亡命先のイタリアで客死。正統ブルボン朝第7代目にして最後の国王となった。
『民衆を導く自由の女神』 ウジェーヌ・ドラクロワ 1830年 ルーヴル美術館所蔵

この結果、国王シャルルはイギリスに亡命し、共和派の反対を押しきって大資本家に支持されたオルレアン家(ブルボン家の分家)のルイ=フィリップが即位して立憲君主制の七月王政を成立させます。

「フランス人民の王」と称したルイ・フィリップは、実質的にはブルジョワを擁護する王で在った為、市民たるブルジョワジーの不満は徐々に解消されていきます。このフランス7月革命の影響は各国に波及し、ポーランドではロシア帝国による支配に対しての不満という形で民族主義者や自由主義者がワルシャワで蜂起(十一月蜂起)して革命政府を樹立し、1831年1月に独立を宣言しましたが、同年9月にロシア大軍によって再び占領され、以後、ポーランドの民族 運動は徹底的に弾圧されることになりました。ショパンが、パリに向かう途中のシュ トゥットゥガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その衝撃から「革命」のエチュードを作曲したことは有名なエピソードになっています 。(PTNAピアノ曲事典参照

ルイ=フィリップ1世 (1773-1850) 7月革命によって即位したブルボン家の分家にあたるオルレアン家出身のフランス人民王。父親はフランス革命でルイ16世の処刑に賛成し、恐怖政治時代に自らもギロチン台に消えたオルレアン公、ルイ=フィリップ平等公 Philippe Égalité=Louis Philippe Joseph, duc d'Orléans(1747-1793)。
ワルシャワ武器庫の奪取 La prise de l'Arsenal (1831) マルチン・ザレスキMarcin Zaleski (1796-1877) フランス7月革命鎮圧のためにポーランドから軍を動員しようとするロシア皇帝ニコライ1世の政策に反乱を起こしたワルシャワ士官たちに呼応して、市民たちが武器庫を占領した1830年11月29日に勃発したワルシャワ蜂起の様子を描いたもの。

七月革命を機に、富に加えて政治的権力も得た資本家たちは、土木や鉄道などの国家的利権を私物化して莫大な資本を築き、パリはさまざまな文化人の集まる「芸術の都」として輝き始めます。
ショパンが到着した頃のパリは、このように七月革命の余熱がまだ残り、あらゆる主義や主張が錯綜し、至るところで暴動が発生する一方、人々は自由への期待でいっぱいで、最高の贅沢と悪徳の氾濫する 蠱惑的 こわくてき で華やいだ、 芸術家 アーチスト の創造意欲を掻き立てるには格好の都市でした。

イタリアン大通り/カプシーヌ大通り

また、パリでは現在でも居住地が階級によって分かれていますが、当時、ショパンの住んだアパートは、西のマドレーヌ寺院から東のサン・ドニ門を結ぶ、大きな並木道と遊歩道を備えたグラン・ブルヴァールと呼ばれるパリでもっとも賑やかな大通りのひとつに面し、西に向かえば銀行家や実業家の住む、流行の最先端をいくカフェや大劇場の集まる区域、東に向かえば職人や労働者の住む、芝居小屋が立ち並ぶ庶民たちの歓楽街という、中産階級と労働者階級の境に位置する刺激的なエリアでした。

ポワソニエール大通り1834 Isidore Dagnan (1794-1873) カルナヴァレ美術館蔵

ショパンはこのポワソニエール大通り27番地を出発点に、スターダムへの階段を昇り始めます・・・自室5階へのアパルトマンの階段と共に!

ヴァリエテ座

30-32, Boulevard Montmartre
75002 Paris
+33 (0)1 42 33 11 41
http://www.theatre-des-varietes.fr
入館:月曜~土曜11H--18H /日曜12H00 --16H00
受付:月曜--金曜11h~19h受付
M⑧⑨Grands Boulevards

ショパンのアパートから数歩の距離に有る、馬蹄形の美しい劇場。1807年、パレ・ロワイヤルからモンマルトル大通りに移転オープンし、デュマの『椿姫』やゾラの『ナナ』にも登場する。1991年から2004年まで、俳優のジャン・ポール・ベルモンドが所有していたことでも有名。裏手には百貨店の先駆けとなったショッピング・モールのひとつ、パサージュ・パノラマが控え、古き良きパリの、レトロな雰囲気を醸し出している。

Passage des Panoramas

11 boulevard Montmartre
10 rue Saint-Marc 38 rue Vivienne 151 rue Montmartre
75002 Paris
6時~24時
M⑧⑨ Grands Boulevards

1800年に亡命貴族の邸宅跡地に建設された、歴史あるパッサージュのひとつ。パリで初めてガス灯による照明を演出したことでも知られる。
入口上方に360度に広がる景色を体感できる、パノラマと呼ばれる円形状の建物が設置されていた為、パッサージュ・パノラマと呼ばれた。このパノラマはショパンがパリに到着した年に取り壊され、その後の改築によって、ヴァリエテ、モンマルトル、サン・マルク、フェイドーの4つのギャルリーが足されて、今日に至る迷宮のような空間が形成された。 彫刻家のダンタン(1800 - 1869)は、ルイ・フィリップ、ベートーヴェン、パガニーニ、リスト、ユゴー、バルザックといった時代の名士たちのカリカチュア人形や肖像画、石膏や銅による胸像をミュゼ・ダンタンとしてパサージュ内に展示し、市民の人気を博した。
現在は、古くからある切手・コイン・絵葉書等のコレクター向けの店に加え、ビストロやカフェ、レストランが集まり、パリの古き良き時代のレトロな雰囲気が味わえる。

47, passage des Panoramas 75002 Paris
+33 (0)1 75 43 63 10
info@caffestern.fr
M⑧⑨Grands Boulevards
火~土 9H30 ~22H30
ランチ 12H30~14H30
ディナー 19H30~22H30

1834年創業、歴史建造物にも指定されている伝説の印刷・版画工房「Gravier Stern」が、最年少で3つ星に輝いたイタリアン・シェフによるトラットリアに変身。ファサードのコヨーテの剥製が印象的。

店内には翼の生えたウサギの剥製も。非現実的で摩訶不思議な空間。
フレデリック・フランソワ・ショパン Frédéric François Chopin (1810-1849)

作品のほとんどがロマンチックなピアノ独奏曲であることから「ピアノの詩人」と称される、ポーランド出身のフランスで活躍した作曲家。

クラシック音楽の分野で最も大衆に親しまれ、彼のピアノ曲は今日に至るまで、コンサートやピアノ学習者の重要なレパートリーとなっている。

ワルシャワ郊外で、フランス人の父とポーランド人の母との間に生まれ、生後数か月で家族と共にワルシャワへ移住し、1830年11月、国際的キャリアを積むため、ウィーンへ出発するが恵まれず、一年後の秋にパリへ移住。以後、パリを拠点に活躍し、美しい旋律、斬新な半音階進行と和声によって、ピアノ音楽の新境地を開いた。

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