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演奏する脳(後編)ー演奏時にはたらくワーキングメモリーのしくみー

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演奏する脳(後編)ー演奏時にはたらくワーキングメモリーのしくみー

執筆:田中 昌司

1. はじめに

何度も繰り返し練習を重ね、曲のイメージもはっきりと描けるようになったあなた。その長いトレーニングの中で身につけてきた力を、本番で十分に発揮するためには、ある脳機能が欠かせません。それが、「ワーキングメモリー」と呼ばれる能動的なシステムです。今回は、演奏のパフォーマンスを大きく左右する、この重要な脳機能であるワーキングメモリーについてお話しします。

2.ワーキングメモリーとは

前編でお話ししたように、記憶には異なるカテゴリーがあります。三つの長期記憶(意味記憶、エピソード記憶、手続き記憶)と、ひとつの短期記憶(ワーキングメモリー)です。ワーキングメモリーが短期記憶であるのは、内容を長期にわたって脳に蓄える必要のない記憶だからです。

では何のためにワーキングメモリーが使われるかというと、今まさに進行している行動を支えるためです。演奏時、ワーキングメモリーは、楽譜からの情報読み取り、音の記憶、指の動きの制御といった複数の作業を同時に行うための「脳の作業台」として機能します。

演奏に向けて入念に準備することで、あなたの脳内には、曲全体を支える詳細なアクション・プログラムが作り上げられています。通し練習では、そのプログラムの中から、必要な部分だけが取り出され、アクション・プランとしてワーキングメモリーに載せられます。たとえば、「この部分はこう弾こう」「ここは間違えやすいから注意しよう」といった具体的な判断が、一時的に心に留められながら、演奏は進んでいきます。

要するに、ワーキングメモリーとは、今まさに、あるいはこれから行う演奏のために、アクション・プログラムの一部をアクション・プランとして一時的に保持する仕組みです。その保持時間は内容によって異なり、数秒というごく短い場合もあれば、数分以上に及ぶこともありますが、いずれにせよ、演奏という行為が終われば役割を終える、短期間に限られた記憶なのです。

3.ワーキングメモリーのメカニズム

短期記憶であるワーキングメモリーの保持の仕方は、長期記憶とは決定的に異なります。長期記憶は脳の神経回路に書き込みますが、ワーキングメモリーは書き込みません

では、短時間にせよ、どのようにしてワーキングメモリーが保持されるかと言うと、神経活動が維持されるからです。私たちが何かをしている時、脳の神経細胞(ニューロン)は活動しています。少しイメージしにくいかもしれませんが、電気パルスを盛んに出しているのです。

演奏も、多数のニューロンが電気パルスを出して、またそれが最終的には指や体を動かす筋肉に伝えられることで可能になります。それだけではなくて、「曲のあそこを鳥の羽のように柔らかく弾こう」と思ったら、その箇所が来るまで、脳内のある場所(前頭前野)にあるニューロンが電気パルスを出し続けます。脳科学的に見れば、これがワーキングメモリーの実体です。

4.ワーキングメモリーの性質

ワーキングメモリーが「脳に書き込まれる記憶」ではなく、電気パルスの維持によって保たれているのは、不要になった情報をすばやく消去する必要があるからです。たとえば、柔らかく弾いた直後に、次は力強い表現が求められることもあります。演奏の進行とともに変化する弾き方や表現に対応するため、脳内ではワーキングメモリーを常に更新し続けなければなりません。その点、電気パルスによる保持は、こうした切り替えを容易にしてくれます。

しかし、ワーキングメモリーの消えやすさが同時に弱点にもなります。あの個所はこう弾こうと思っていたのに、他のことに気を取られて、ついそのことを忘れてしまい、無意識に弾いてしまった、ということがあるかと思います。

他のことに気を取られて――そうです、ワーキングメモリーは、注意がそれると消えてしまうことが少なくありません。だからこそ「集中しなければ」と思うのですが、あれもこれも意識しながら弾こうとすると、一時的に覚えておかなければならないことが多すぎて、すべての情報を電気パルスによって維持し続けることは難しくなります。

このように、消えやすく、しかも多くの内容を同時に保持できないという性質は、情報を電気パルスで支えるワーキングメモリーの宿命です。本番前にはさまざまなことが頭をよぎり、ワーキングメモリーはすでに限界に近づいているでしょう。そんなとき、ふと何かに気を取られると、別の何かが抜け落ちてしまいます。

こうしたワーキングメモリーの性質を、私たちは無意識のうちによく知っています。だからこそ、人は心細さを覚え、本番前に緊張してしまうのかもしれません。

5.本番に必要なのは高すぎない覚醒レベル

ワーキングメモリーを鍛える方法はありませんかという質問をよくいただきます。機能自体を直接鍛える方法は発見されていませんが、日頃のトレーニングを積むことで、本番でワーキングメモリーにかかる負荷を軽くすることはできると思います。たとえば、前編でお話しした手続き記憶によって自動化できる部分は自動化することで、負担は軽くなります。

また、過度な緊張はワーキングメモリーの機能を一時的に低下させるので、適度にリラックスすることも有効です。適度なリラックス・適度な緊張感のときにワーキングメモリー、したがってパフォーマンスが最大になるという法則はよく知られています(『音大生・音楽家のための脳科学入門講義』)。

パフォーマンスを大きく左右する脳内物質のひとつが、ドーパミンです。脳内でのドーパミン分泌が高まると、モチベーションが引き上げられ、いわば「やる気のスイッチ」が入った状態になります。その結果、多くの場合、パフォーマンスは向上します。

しかし、その分泌量が過剰になると、いわゆる「ハイ」な状態に陥り、集中力や自己制御がかえって損なわれてしまいます。その結果、パフォーマンスは低下します。逆に、分泌量が不足すると、やる気そのものが湧かなくなります。つまり、ドーパミンの働きにも、最適なバランスがあるのです。

6. おわりに

三回にわたってお届けした「演奏する脳」のお話、いかがでしたでしょうか。音楽の脳科学についてお伝えする機会をいただき、ありがとうございます。お一人おひとりのお顔を思い浮かべながら文章を書いていて(不思議なものですね、存じ上げないはずなのに、そんな感覚が自然と湧くなんて)、楽しかったです。皆さまの日々の演奏や音楽体験が、これからもより豊かなものとなりますよう、心よりお祈りしています。


引用文献
執筆:田中 昌司(たなか しょうじ)

名古屋大学大学院工学研究科博士課程修了・工学博士。2023年まで上智大学理工学部教授。現在、上智大学名誉教授、日本声楽発声学会理事。客観的なデータ解析のみに頼らず、人間の主観的な経験や感情など、心の内面の解釈に重きを置いて脳を研究するロマン主義脳科学者。音楽や文学との融合を図り、癒やし・自己再構築・心の再生などの研究テーマに取り組んでいる。


次回予告

3回にわたって脳科学から演奏のメカニズムやレッスンとの関係を見てきました。いかがでしたか?
次回はガラッと趣向を変えて,落語の稽古を取り上げます。他分野の実態からピアノレッスンにどんな発見があるでしょうか?
ご担当は認知科学のエキスパート,野村亮太先生です。お楽しみに!

執筆:野村 亮太
のむら りょうた◎早稲田大学人間科学学術院准教授。
1981年、鹿児島県に生まれる。2008年、九州大学大学院で人間環境学府行動システムを専攻し、期間を短縮して修了。2019年、東京理科大学大学院工学研究科経営工学専攻修了。博士(心理学)、博士(工学)。2020年4月より早稲田大学人間科学学術院にて劇場認知科学ゼミを主宰。
著書に『やわらかな知性 認知科学が挑む落語の神秘』,『舞台と客席の近接学 ライブを支配する距離の法則』(いずれもdZERO)がある。
次回記事の内容

落語にレッスンはありません。ただ,新しいネタを覚えたいときには,他の噺家に教わり,公演の許諾を得る必要があります。教わる相手は自分の師匠とは限りません。ときに所属団体の垣根さえ超えて教わることができます。次回は,そんな落語の稽古についてお話しいたします。


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