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演奏する脳(中編)―心のイメージと演奏は脳のどこで出会うのか?―

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演奏する脳(中編)―心のイメージと演奏は脳のどこで出会うのか?―

執筆:田中 昌司

1. はじめに

演奏家が心の奥に抱く「表現したい音のイメージ」。それは、まだ音にならないうちから、すでに脳の内側で確かな輪郭を持ちはじめます。この心のイメージは決して曖昧なものではありません。演奏家の脳内では、音高や強弱、響きの質感までも含んだきわめて具体的な音の姿が形づくられていることが、脳科学研究によって徐々に示されつつあります。それは演奏の設計図のような働きをして、実際の演奏を導く深い指針となるのです。

2.イメージを創る創造的なアトリエ

ふと目を閉じたとき、なにも映っていないはずの暗闇の向こうに、ゆっくりと風景が立ち上がってくる瞬間があります。夕暮れの川辺だったり、かつて旅した街の石畳だったり、あるいはまだ誰も訪れたことのない想像上の庭園だったり。

近年の研究によれば、その中心的な役割を担うのが、内省的な思考や想像をつかさどる「デフォルトモード・ネットワーク」です(『音大生・音楽家のための脳科学入門講義』)。外界からの刺激が少ないときに活動するこの脳内ネットワークが、音になる前の「心の中の音像」(心のイメージ)を練り上げていると考えられています。

たとえば、あるメロディーを聴いたとします。その旋律が、かつての夕暮れと結びつき、あの時の匂いまで蘇ることがあります。これはデフォルトモード・ネットワークが、記憶の中に眠る素材を呼び覚まし、現在の感情とそっと重ね合わせている証です。

私たちがイメージを「思い浮かべる」のではなく、むしろイメージの方がこちらに「訪れてくる」と感じるのは、デフォルトモード・ネットワークが裏側で絶え間ない編集作業を続けているからでしょう。とても創造的なアトリエなのです。

音楽は個人的な記憶と深く結びついており、特定の音楽を聴くことで過去の出来事や感情が呼び起こされることがよくあります。それはデフォルトモード・ネットワークが記憶に関連する領域と連携しているからです。音楽鑑賞が記憶の整理や統合を促すのでしょう。このネットワークの活性化は、新しいアイデアや「ひらめき」を生み出すのに役立ちます。

3.脳の言語領域

音楽と言語の脳内処理には、意外なほど多くの共通点があります。どちらも時間の流れに沿って展開する構造を理解し、規則性を読み取り、予測する力が欠かせません。言語なら文法、音楽なら和声やリズム。それぞれの手がかりを手に、私たちは意味をつかみ取ろうとします。音の高さやイントネーション、リズムの変化までが、理解の助けとなる点も共通しています。

この共通処理を支える中枢のひとつが、大脳皮質に広がる「シルビウス溝周辺の言語ネットワーク」です。シルビウス溝とは、脳の前頭葉と側頭葉を分ける深い溝のことです。この溝を取り囲むようにネットワークは広がり、前頭葉・頭頂葉・側頭葉にまたがります。これまで主に言語理解の中枢として知られてきましたが、近年の研究で、音楽を聴いたり、構造を理解したりするときにも、同じネットワークが活動することがわかってきました。

つまり、言語と音楽はまったく別の能力ではなく、重なり合った神経基盤の上で育まれているのです。旋律の進行や和声の変化を予測する力と、文の統語構造を理解する力は、脳の奥深くで密接に絡み合っています。音楽を聴き、言葉を理解するその瞬間、私たちは同じネットワークに頼りながら、時間の中に意味を見つけようとしているのです。

4.イメージと演奏が出会う脳の領域

演奏しているとき、この言語(音楽)ネットワークがデフォルトモード・ネットワークとの結びつきを強めることが、私たちの研究で明らかになりました(Tanaka and Kirino 2021)。この結果は、二つのネットワークが強く連動し、互いに活発な情報交換を行っていることを意味します。この協同作業によって、心の中に抱いている音のイメージが、実際の演奏に反映されると考えられます。

より正確に言えば、この言語(音楽)ネットワークの周囲には、さらに広範な脳領域が広がっており、それを介してデフォルトモード・ネットワークと結びついています。この領域には、身体の動きを計画・制御する領域なども含まれており、演奏中の身体運動と心の中のイメージという、性質の異なる情報を統合する役割を担っていると考えられます。音のイメージや意味、そしてそれを実現するための身体の動きといった多様な情報を、同時に扱うことができるのです。

上記の結果は世界で初めて得られたものです。この実験には主に東京藝術大学・声楽専攻の大学院生および卒業生の方たちに参加していただきました。MRI装置に入っていただき、心の中でそれぞれ各自の十八番のアリアを歌っていただいた時の脳活動データを解析しました。声楽の方たちで行った理由は、言語との関係を明確にしたかったからですが、上述したように、音楽と言語の共通性の高さから、器楽奏者でも同様の結果が得られるのではないかと推測しています。

5.エピソード記憶の役割

心にイメージを立ち上げるデフォルトモード・ネットワークは、私たちが自らの人生の一場面、すなわちエピソード記憶を呼び起こすときに活発になります。エピソード記憶は、経験した出来事を心に刻み、それを言葉にして他者と共有するための、脳に備わった記憶のフォーマットなのです。

心に思い描くイメージの豊かさはエピソード記憶の豊かさの反映であり、それはまた、これまでどのような人生経験を重ねてきたかということに大きく左右されます。芸術作品に触れたり、世界文学に親しんだりすることは、このネットワークを磨き、より多層的で生き生きとした心のイメージを育てる土台となります。私自身、上智大学での教育や演劇研究を通して、演劇がいかに「生きた経験」を豊かにもたらしてくれるかを学びました(脳科学で観る演劇の『もう一つの舞台』)。

エピソード記憶は、自らの経験を保存するためのシステムであると同時に、他者の心を想像し、理解し、さらには豊かな音楽表現を生み出すための源泉です。まさにそれは、創造の深みに通じる、脳のきわめて重要なしくみなのです。

6. おわりに

心の中に描かれたイメージは、演奏をつかさどる脳の領域と出会うことで、「表現したい音」の輪郭を形づくります。心のイメージは演奏に意味を与え、音楽はより豊かに、より深く響き始めるのです。

私たちは、想像以上に豊かで奥行きのある精神世界をもっています。心のイメージを生み出す脳のはたらきが、最近の研究によって明らかにされつつあります。関心をお持ちの方は、拙著『音大生・音楽家のための脳科学入門講義』『音楽する脳と身体』もご覧いただければ幸いです。なお、今回は触れられませんでしたが、音楽がもつ「癒やしの効果」も、心のイメージを生み出す脳のはたらきによるものであることがわかってきました(毎日メディカル)。音楽を脳科学の視点から見つめ直すことで、その素晴らしさをあらためて実感することが多くあります。

何度も繰り返し練習を重ね、曲のイメージもはっきりと抱けるようになった――あとは、それまでに積み上げてきたものを、本番の舞台で十分に発揮できるかどうかです。演奏中、脳のワーキングメモリーは休むことなく働き続けます。ところが、このワーキングメモリーの意外な性質こそが、本番前の緊張を生み出す一因でもあります。次回は、演奏に欠かせないワーキングメモリーの役割についてお話ししましょう。


引用文献
執筆:田中 昌司(たなか しょうじ)

名古屋大学大学院工学研究科博士課程修了・工学博士。2023年まで上智大学理工学部教授。現在、上智大学名誉教授、日本声楽発声学会理事。客観的なデータ解析のみに頼らず、人間の主観的な経験や感情など、心の内面の解釈に重きを置いて脳を研究するロマン主義脳科学者。音楽や文学との融合を図り、癒やし・自己再構築・心の再生などの研究テーマに取り組んでいる。


次回予告
日頃漠然と信じている「豊かな経験が演奏も豊かにする」という考えに自信を与えてくれるような脳科学の最新知見、いかがでしたか?
次回はいよいよ本番での実践段階へ。田中昌司先生の後編です。お楽しみに!
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