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演奏する脳(前編)―演奏スキルは脳にどのように蓄えられるのか?―

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演奏する脳(前編)―演奏スキルは脳にどのように蓄えられるのか?―

執筆:田中 昌司

1.はじめに

毎日何時間も練習しているのに、なぜ上達がゆっくりなのか。練習によって得たスキルは、脳のどこにどのように蓄えられていくのか。そんな疑問を抱く方も多いでしょう。今回は、こうした問いに対して、最新の脳科学がどのような答えを示しているのかをお話ししたいと思います。

2.学習と記憶

経験を通じて、知識や行動、スキルなどを新たに身につけたり、修正したりすることを「学習」といいます。学習の過程では、脳の中で神経細胞(ニューロン)のつながりが少しずつ変化していきます。その変化によって、学んだ内容が脳に刻まれ、やがて「記憶」として蓄積されていくのです。

記憶にはいくつかのカテゴリーがあります。意味記憶、エピソード記憶、手続き記憶、ワーキングメモリーなどです。この中で最初の三つは「長期記憶」とよばれていて、脳内に形成され貯蔵された記憶が長い間(場合によっては一生涯)保持されます。四つ目のワーキングメモリーは短期記憶で、脳内に長時間保持されることなく消えていきますが、演奏時にはとても重要な役割をします(後編で取り上げます)。

長期記憶の中で、意味記憶はいわゆる知識の記憶であり、エピソード記憶は個人の出来事の記憶、そして手続き記憶は自転車の乗り方など、体で覚えるタイプの記憶です。楽器の演奏スキルは手続き記憶として脳に蓄えられます

脳科学の進展により、手続き記憶は「新しい脳」とされる大脳皮質と、「より古い脳構造」である大脳基底核がつくる神経ネットワーク(大脳皮質・基底核ネットワーク)に蓄えられることがわかってきました。

3.演奏スキル習得のメカニズム

この大脳皮質・基底核ネットワークは、演奏に限らず、あらゆる運動制御を支える重要なシステムです。このネットワークがうまく働かないと、たとえばパーキンソン病に見られるような運動障害が生じます。裏を返せば、このネットワークをいかに巧みに活性化し、機能させるかが、演奏スキルの向上につながるのです。脳科学的に見れば、演奏スキルの向上とは、まさにこのネットワークを精緻に鍛え上げていくプロセスだと言えるでしょう。

そのメカニズムは、「無駄を省く」という脳の基本原理に従っています。生まれたばかりの子どもの脳には、どのような人生にも対応できるよう、多様な神経結合が大まかに用意されています。しかし、成長とともに脳の使い方の方向性が定まってくると、日常的に使われない神経結合は徐々にそぎ落とされていきます。それと同時に、より頻繁に使う神経結合は強められていきます。こうして、脳のネットワークは「その人にとって」より効率的に働くよう洗練されていくのです。

こうしたプロセスを日々繰り返すことで、特定の行動は習慣化し、あまり意識しなくても実行できるようになります。音楽家やバレエダンサー、スポーツ選手のように高度な運動制御が求められる場合には、大脳皮質・基底核ネットワークをより意識的に調整していきます。これが毎日のトレーニングにほかなりません。

しかし、神経結合は微細な調整を積み重ねて、少しずつ変化していくため、その進行はゆっくりです。このようにして身につけた動作は忘れにくい反面、変えたくてもなかなか変えられません。悪い癖がつい出てしまうというのも、そのためです。適切なレッスンを受けることの大切さがわかりますね。

4.音楽家の脳の特徴

幼い頃から演奏を続け、音大生となった人々の脳には、すでに脳に特有の形態的変化が見られます。大脳皮質・基底核ネットワークの主要部位の体積は、一般大学生よりも小さくなっています(Sato et al. 2015)。直感に反するようで驚きますが、とても興味深い結果であり、海外の研究でも、バレエダンサーやピアニストを対象とした実験において、同様の結果が得られています。

その後の研究で、音大生の大脳皮質・基底核ネットワークが、よりコンパクトにまとまっていることも確認できました(Tanaka and Kirino 2016)。長期にわたるトレーニングの過程で不要な結合がそぎ落とされ、効率的なパフォーマンスを支えるネットワークへと洗練されたことが示されたわけです。

これらの研究には、桐朋学園大学音楽学部の学生の皆さんに参加していただき、比較対象として上智大学の学生にも協力をお願いしました。上智大生の中には、音楽サークルでアマチュア演奏を続けている学生もいれば、授業以外ではほとんど音楽活動をしていない学生もいます。この三つのグループを比較したところ、ネットワーク主要部位の体積が最も小さかったのは桐朋生で、次に音楽活動を行っている上智大生、そして音楽活動をしていない上智大生という順でした。つまり、演奏トレーニングを積めば積むほど、これらの脳部位の体積は小さくなる傾向が見られたのです(『音大生・音楽家のための脳科学入門講義』)。

5.豊かな表現

演奏スキルが手続き記憶として脳に蓄えられ、動作として自動化されていくと、脳はより豊かな演奏のために必要な情報処理に、いっそう多くのエネルギーを割けるようになります。たとえば、これまでに身につけた音楽理論の知識、作曲家の意図の読み取り、メロディーやリズムの構造把握、曲全体の解釈、さらには表現方法の選択といった高度な判断です。こうした営みには、冒頭で述べたすべての種類の記憶が総動員されています。演奏家は、脳内の多様なネットワークを巧みに使い分けながら、自身の表現をより深く、豊かに磨き上げていくのです。

豊かな表現を支えているのは、大脳皮質・基底核ネットワークとは別に、大脳皮質全体に広がる広域ネットワークです。このネットワークは、学習や経験を重ねるほど神経のつながりが増え、まるで長く弾き込まれた楽器が、少しずつ音に深みを増していくように、その働きが洗練されていきます。

実際、先に触れた研究では、演奏の際によく使われる脳部位は体積が大きくなっていることが確認されました。先ほど説明した演奏スキルのネットワークとは逆の傾向ですね。こうした部位の体積は音大生で最も大きく、授業以外ではほとんど音楽に触れない学生で最も小さいという結果が得られています(『音大生・音楽家のための脳科学入門講義』)。音楽が脳の発達に良い影響を与えると言われるのは、感覚的な印象だけでなく、このような脳の変化が実際に確かめられてきたからなのです。

6. おわりに

音楽と脳にまつわる研究には、興味深い新発見や物語が他にもたくさんあります。もっと知りたいという方は、拙著『音大生・音楽家のための脳科学入門講義』をぜひご覧ください。また、『音楽する脳と身体』では、聴覚の仕組みや音楽と感情をめぐる対談も紹介しています。さらに、中日新聞・東京新聞の朝刊生活面で連載中の「脳と心のサロン」(隔週金曜日)でも、脳に関する身近な話題をわかりやすくお伝えしています。これらの知見が、皆さんの演奏に少しでもお役に立てば幸いです。

「表現したい音のイメージ」は、演奏家の脳のどこにつくられるのか。最近の研究で、それを担う脳内ネットワークが明らかになってきました。さらに脳のどこでイメージと演奏が出会い、結びつくのかということも興味深いポイントですね。次回はそのようなことをお話しします。


引用文献
執筆:田中 昌司(たなか しょうじ)

名古屋大学大学院工学研究科博士課程修了・工学博士。2023年まで上智大学理工学部教授。現在、上智大学名誉教授、日本声楽発声学会理事。客観的なデータ解析のみに頼らず、人間の主観的な経験や感情など、心の内面の解釈に重きを置いて脳を研究するロマン主義脳科学者。音楽や文学との融合を図り、癒やし・自己再構築・心の再生などの研究テーマに取り組んでいる。


次回予告
次回も田中昌司先生がご担当です。豊かな演奏と切っても切れない、奏でたい音色をクリアにイメージする技能。
誰もが「十分にイメージできない」、「イメージが実現できない」こうした苦労に直面したことがあるはず。音色のイメージをめぐる脳のメカニズムとは? お楽しみに!
指導のいろは
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