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音楽コンクールについて考える(前編)

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音楽コンクールについて考える(前編)

執筆:長谷川諒

指導者は「コンクールでの良い表現」を教える前に「コンクールとの向き合い方」を示さなければならない──それが本稿のテーマです。

コンクールは,コンサートとは異なる魅力を備えた音楽の場です。緊張感の高い場で紡がれる音楽を通してプレイヤーとオーディエンスが繋がる音楽空間。国際的な音楽コンクールで日本人が活躍するシーンをみて,「自分もコンクールに挑戦したい」と思う若者が現れることも理解できます。

一方で,コンクールでの失敗経験により,音楽に対するモチベーションが損なわれる人がいることも見過ごせません。筆者は学生のころサキソフォンを専攻していたので,吹奏楽コンクールに熱を上げる中高生を多く指導してきました。吹奏楽部の中高生にとって,コンクールでの評価(賞の色)は青春の価値を決定づけるにも等しい重さを有しています。だからこそ,結果が振るわなかった場合,彼らは音楽それ自体を苦い思い出と同一視し,音楽から離れていく。結果が悪かったにせよ,彼らの音楽経験が無価値だったはずがありません。しかし,コンクールでの低い評価は,「あなたの音楽は間違っていたのだ」と断じているかのような威圧感があります。コンクールとは,見ようによってはとても残酷な営みです。

個人にとって素晴らしいと思えていた音楽経験が,他者によって低く評価されてしまった途端に自分の経験の価値そのものが喪失したかのように思えてしまう。あるいは,自らの音楽経験を評価するための判断力をまだもっていない人が,権威のある他者からの評価を鵜呑みにした結果,深く傷ついてしまう。これは,真面目に考えれば結構難しい問題です。哲学的な言葉を使えば,美における主観主義と客観主義の対立だといってもいいでしょう。とにかく,ただひたすらに「良い表現」を教え,それに生徒が接近し,そこに結果がついてくればラッキー,ついてこなければそれはそれで仕方ないので受け入れさせる,と割り切れるほど音楽コンクールは単純ではない,ということです。そして,心ある指導者は,その複雑さを引き受けなければならない。コンクールの結果に支配されるのではなく,コンクールを自己実現に有効活用できるようなマインドを生徒に授けなければならない。本稿では,次回の記事と合わせて,そのための視点について語っていきたいと思います。

音楽とスポーツの違い

まずは音楽コンクールがスポーツやチェスといった他のコンペティションと何が違うのか考えてみましょう。

吹奏楽コンクールは「音楽版甲子園」などと言われます。管楽器を抱えてひと夏の青春を追いかける吹奏楽部が甲子園に例えられるのは一定程度納得できます。ピアノのコンクールも個人参加であることを除けば吹奏楽コンクールと同様の構造を有している,と言えるでしょう。

しかし,筆者は吹奏楽コンクールと甲子園を同一視する発想が台頭しているこの現状に危機感を覚えています。吹奏楽コンクールと甲子園は決定的に異なっている──なぜなら音楽には競技性が内在していないからです。

甲子園で行われる野球というスポーツは,団体で勝敗を争うという競技性がルールの根底に存在しています。「良いバッティング」とは,然るべきタイミングで得点につながるバッティングであり,つまり試合に勝てるバッティングです。「良いピッチング」「良い守備」も全て「試合に勝てるピッチング」「試合に勝てる守備」として再定義することができます。プレーの「良さ」は,得点や勝敗の結果から客観的に推し量ることができます。なにより重要なのは,これらのルールが野球というスポーツの原理やルール,楽しさと根本的に結びついている,という点です。野球から競技性を引き算すれば,「良いバッティング」の本質は大きく変わってしまう。野球には,その本質的要素として競技性が内在しています。

音楽に競技性は内在しない

ではクラシック音楽における「良い演奏」は「コンクールで勝てる演奏」だと再定義できるでしょうか? おそらく難しいでしょう。そもそも音楽表現はその営為の中に勝敗につながる得点構造を有していません。「この連符を決めれば10点」「この曲をノーミスで演奏できたら基礎点30点」のようなルールは音楽演奏に内包されていません。コンクールで勝てる演奏が直ちに「良い演奏」になるわけでもありません。なぜなら,コンクールでの勝敗を決定するためのルールが,クラシック音楽の演奏というパフォーマンスに内在していないからです。音楽には競技性が内在しない──それがスポーツと音楽の違いです。

そもそも競技性の内在していない音楽をコンクールで競うのだから,結果に疑問が生じたり,自分の主観的評価と審査委員の評価が一致しなかったり,という事態は当然起こり得ます。競技性を内包するスポーツでさえ誤審があるのだから,音楽において審査結果に曖昧さが生じるのは当然だと言えます。音楽を完全無欠の競技にすることは不可能ですし,審査員に「完璧に正しい評価」を求めることも不可能です。

では,そのような不完全性を前提とする音楽コンクールに参加することに意義や価値は全くないのでしょうか。筆者はそうは思いません。音楽コンクールの結果に支配されることなく,コンクールを楽しむためにはどうすればいいのでしょうか。

ということで今回の紙幅が尽きてしまいました。次回の記事ではコンクールを楽しむためのマインドやコツについて,具体的に語っていきたいと思います。お楽しみに!

執筆:長谷川諒(はせがわ りょう)

音楽教育学者、博士(教育学)。音楽科教育のあるべき姿を模索すべく、音楽と公共の接点について研究している。主著『音楽科教育はなぜ存在しなければならないのか』発売中。エリザベト音楽大学専任講師。


次回予告

次回も引き続き長谷川先生がご担当です!
順位に意識が向かざるを得ないコンクールの世界…。いかなる結果だったとしても,全力で演奏をまとめ上げた経験はその後の学習にポジティブなものであるはず。
指導者や学習者に求められるマインドとは?
長谷川先生の後編,お楽しみに!


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