ピティナ調査・研究

第33回 ムソルグスキー:展覧会の絵、ヴィクトル・ハルトマンの思い出

Pictures at an Exhibition. A Remembrance of Viktor Hartmann

ムソルグスキー 組曲「展覧会の絵」(ベーレンライター版)特色について

解説:金子一朗

ベーレンライター版の楽譜は、J.S.バッハモーツァルトの楽譜などに代表されるように、過去に残された膨大な資料を基に、作曲家が最終的に残したかったと想定される作品の姿を、最新かつ正確無比な形で我々に提供してきました。楽譜はすべて原典版ですが、これは、ベーレンライター版が、作曲家の作品に込められた意思を最大限尊重するからに他なりません。しかし、その一方で、出版社には、可能な限り演奏者が演奏しやすい形で楽譜を提供する使命もあるでしょう。そこに出版社の意図が少なからず入ることになります。このバランスをとることが、原典版を出版する難しさの一つだと思います。ベーレンライター版は、たとえば、J.S.バッハの平均律クラヴィア曲集やフーガの技法の楽譜では、4声のフーガにおいて、ソプラノとアルトは上段、テノールとバスは下段に記載しています。これは、バッハの自筆譜または写本の形態に基づくものです。しかし、演奏する際は、特にアルトやテノールは、左右どちらの手で演奏するかは演奏者に任されています。他の多くの原典版では、編者の考えた運指などを基に、アルトやテノールをそのときに応じて上段に書いたり下段に書いたりしていますが、運指は演奏家によって異なるため、作曲家の意図とは必ずしも一致しません。こういったことに代表される編者の意思を可能な限り排除した、作曲家の素の意思の結晶がベーレンライター版の楽譜であるといえます。

作曲家が生存中であれば、作曲家本人に正しい最終稿を提出してもらい、その校正を繰り返せば正確な楽譜が出版できるので、出版社の仕事はほとんど事務作業だけになるでしょう。しかし、現在生存していない作曲家とはこういった事務作業のやりとりができず、残された自筆譜や資料だけが頼りになります。自筆譜の状態は作曲家によって異なります。J.S.バッハの多くの作品のように、自筆譜は失われてしまっている代わりに、第三者が写譜したものが数種類残っている場合や、ショパンのいくつかの作品のように、同じ作品でも信頼できるいくつかの稿が残っている場合や、解読が一部困難な部分や作曲家自身の記載ミスと思われるものを含む自筆譜が残っている場合などです。また、場合によっては、作曲家の自筆譜に、第三者が(本人は善意のつもりで)訂正、加筆をしたものもあります。こういった場合、自筆譜や資料から、作曲家本人が本当に望んでいたと思われる形を作り出すことは容易ではありません。多くの考古学的考察や演繹的思考などを駆使することになります。ベーレンライター版では、こういった作業によって得られた情報のうち、作曲家や作品の歴史的背景などを前書きに、自筆譜や各種資料から最終的に楽譜として決定する際に必要となった情報や複数の解釈の可能性について、校訂報告の中で過去に例を見ないほど正確かつ詳細に述べています。

今回ベーレンライター社から出版されたムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」は、解読が一部困難な自筆譜や、リムスキー・コルサコフなどが改訂した過去の楽譜の情報などが複雑に絡み合っており、しかも、多くの部分が、ムソルグスキーの天才的な発想なのか、記載ミスなのかを判断するのが極めて困難である中で、その判断理由も校訂報告に詳細に記載された形で出版されています。前書きには、この作品の元となった、ヴィクトール・ガルトマンというムソルグスキーの友人の画家とムソルグスキーを取り巻く時代背景や芸術的な価値観、過去の出版の経緯や楽曲解説が詳細に、かつわかりやすくまとめられています。また、巻末には、ヴィクトール・ガルトマンが残した絵やスケッチとその解説も掲載されており、校訂報告と合わせ、作品を演奏するのに必要な資料の情報がこの1冊でほとんど足りるほど充実しているという点で、比類ない楽譜になっています。
従って、この楽譜は、さまざまなレベルの演奏者や教育者がこの作品を演奏、指導する際、極めて貴重なものになるでしょう。私は、ベーレンライター版の優れた編集に基づくこの楽譜が、ムソルグスキーの、というよりも、ピアノ音楽史上の希代の傑作であるこの作品の真実と魅力を後生に伝える重要なものになると確信しています。

小人
古城
テュイルリー、遊んだあとの子供のけんか
ブイドロ(牛車)
卵の殻をつけたひなどりのバレエ
ザムエル・ゴルデンベルクとシュムイル
リモージュの市場
カタコンブ
鶏の足の上に建っている小屋
キエフの大きな門
収録曲・コンテンツ

演奏: 金子一朗

曲名 演奏
プロムナード "Promenade" 試聴
1.小人 "Gnomus" 試聴
2.古城 "Il vecchio castello" 試聴
3.テュイルリー, 遊んだあとの子供のけんか "Tuilleries - Dispute d'enfants apres jeux" 試聴
4.ブイドロ(牛車) "Bydlo" 試聴
5.卵の殻をつけたひなどりのバレエ "Ballet de poussins dans leurs coques" 試聴
6.ザムエル・ゴルデンベルクとシュムイル "Samuel Goldenberg und Schmuyle" 試聴
7.リモージュの市場 "Limoges, le marche" 試聴
8.カタコンブ~ローマ時代の墓 "Catacombae - Sepulcrum romanum" 試聴
9.鶏の足の上に建っている小屋 "La cabane sur des pattes de poule" 試聴
10.キエフの大きな門 "La grande porte de Kiev" 試聴
演奏・解説: 金子一朗
1962年東京都に生まれる。早稲田大学理工学部数学科卒。本職は中・高等学校の数学科教諭。ピティナピアノコンペティション ソロ部門特級は2003~4年ともに入選。コンチェルト部門上級で2004年に奨励賞、グランミューズ部門A1カテゴリーで2004年に第1位受賞。2005年における同コンペティション ソロ部門特級でグランプリ(金賞)および聴衆賞、ミキモト賞、王子賞、日フィル賞、文部科学大臣賞、読売新聞社賞、審査員基金海外派遣費用補助を受賞。第1回ザイラー国際コンクール・イン・ジャパン・フリー部門第2位。第1回北本ピアノコンクールH部門第1位、合わせて全部門での最優秀賞を受賞。2004年10月にリスト国際コンクールマスタークラスにてレスリー・ハワード氏の公開レッスンを受講、オランダ大使館にてリスト国際コンクール主催の演奏会に出演。2005年1月、円光寺雅彦指揮・東京フィルハーモニー交響楽団と共演。2005年5月、テレビ朝日「題名のない音楽会21」に出演し、現田茂夫指揮・東京交響楽団と共演。2006年4月、沼尻竜典指揮・日本フィルハーモニー交響楽団と共演。2006年1月に初のソロリサイタルを新宿区角筈ホールで開催し、その後同年2月にはイタリアのトリノ、ボローニャの2都市でもソロリサイタルを開催。それぞれ好評を得る。2007年3月、『ピティナ40周年記念 ピアノコンチェルトの夕べ』にて渡邊一正指揮・NHK交響楽団と共演。これまでにピアノを角聖子、神野明、北川暁子、K.H.ケンマーリンク、森知英、秋山徹也、田部京子の各氏に師事。また音楽理論を中村初穂氏に師事。
◆ 特別提供:ベーレンライター展覧会の絵・前書きの日本語訳
ダウンロードはこちら(PDF)
翻訳・監修:菅野 恵理子
上智大学外国語学部卒業。在学中に英ランカスター大学へ交換留学、社会学を学ぶ。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会にて編集・広報等を歴任。2007年に渡仏し「子どもの可能性を広げるアート教育・フランス編」を1年間連載。現在音楽ジャーナリストとして、国際コンクールや音楽祭取材、海外音楽教育のリポート、アーティストインタビューなどを手がける。ピアノは幼少・学生時代にグレッグ・マーティン、根津栄子両氏に師事。ブログ
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