第97話『西陣探訪―秘曲の面影(Ⅲ)♪』
膨大な資料を携えて現代に戻ると、鍵一は叔父のすむ京都貴船※1で作曲に打ち込んだ。ピアノ曲『夢の浮橋変奏曲』※2の初稿が完成すると、京都は春を迎えていた。3月、友人の陶芸家・登与子とともに西陣※3を訪れ、鍵一は重要な事実を知る。
西陣探訪―秘曲の面影(Ⅲ)♪
「『21世紀の楽聖』こと、イニシャルBの先生ですよ。お預かりした羽織袴と手袋は、お若いころにうちで誂えはったものです」
明るい客間に、その絵姿が飾られていた。羽織袴にカンカン帽、絹の手袋。風薫る初夏、若いまなざしは未来へ向けられている。萌える緑を畏れず、流れる白雲を味方に、その青年は鍵盤ハーモニカを
leggiero
※3に吹き鳴らす……
♪ショパン:ワルツ 第1番 「華麗なる大円舞曲」 Op.18 変ホ長調
「この方、鍵一君に似てる」という登与子のささやきを、織屋の主人は聞き逃さなかった。
「B先生もそう仰っていました。鍵一さんを見ていると、昔のご自分を思い出すと」
「こちらによくいらっしゃるんですか?」
「いいえ、前にいらしたのは先代が亡くなった時ですが、先日ひさかたぶりにお手紙を頂きまして。鍵一さんがいらしたら宜しくとの事でした。自分の跡を継ぐ音楽家であるから、くれぐれも宜しくと」
「それは、ぼくがB先生の……後継者という事でしょうか?」
面食らって鍵一は尋ねた。主人は椅子をすすめながら、やわらかく頷いた。「音楽史の研究のお仕事を、ぜひお譲りしたいと書いておられました」
「なにかの間違いじゃありませんか。確かにぼくはB先生から着物と手袋をお借りして」19世紀パリに、とはかろうじて言わずに踏みとどまった。「音楽史のお仕事を手伝っていますが……B先生の門下には、もっと素晴らしい人がたくさんいますから」
「なにか、お考えがあるんやろと思います」
織屋の主人は楽聖の絵姿を眩しそうに仰ぐと、絹糸を束ねて結ぶような調子で言った。
「先代から聞いた話ですが……B先生はお小さいころ、京都の古いお家へ養子に入られたそうです」
「養子、ですか……?」
「伝統工芸の世界では、めずらしい事ではないですよ。何百年も続いた家業を継ぐために、養子縁組をするんです。『イニシャルB』は、そのお家の頭文字です」
思わず登与子と顔を見合わせて、鍵一は居住まいを正した。
「初耳です……!」
「音楽の才ゆえに、家業は継がはらへんかったそうですが。なにかを受け継いでゆく事の重みをよくわかっておられる方です。鍵一さんの事も、決して冗談で仰ったわけではない。私はそのように思います」
ふと廊下に影が映る。すらりと茶菓子が出て、障子は閉められた。
「あの」と、登与子が小さく挙手した。
つづく
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鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。2023年5月27日(土)、本作の音楽朗読劇とともに抜粋版が演奏されます。
音楽用語で「軽やかに」の意。