第81話『2つの古都のための謝肉祭♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月3日、鍵一は叔父とともに貴船神社の節分祭に赴いた。
「静々に五徳にすえにけり薬食(くすりぐい)」※3
甥より先にイノシシ肉を頬張って、古美術商は美味そうに与謝蕪村を気取った。
「これが牡丹鍋ですか」と鍵一は眺めた。なるほど、イノシシ肉が牡丹の花びらのようにひらひらと煮えている。
「江戸時代は仏教の決まりで獣肉を食べちゃいけなかったんで※4、ヤマクジラと呼んでイノシシを食ってたんだ。山のクジラだから獣じゃないというわけで」
「でも、鯨は哺乳類だから獣でしょう」
「当時は魚だと思われてた※5」
魚偏に京と書く巨大な姿を思い描いて、牡丹のいちまいを食せば意外に歯応えがあった。
「美味いだろ。冬を越すために、この時期は脂が乗ってるんだ」と叔父は肉ばかり取る。鍵一はどちらかというと、生麩や豆腐のほうが好きだなと思った。猫のフェルマータはどれにも興味がないとみえて、先ほどからストーブの前でうとうとしている。テレビから旅番組のBGMが流れて来て、白味噌仕立ての出汁に溶けた。
テレビはモンマルトルの眺望を写していた。白亜のサクレ・クール寺院※6は鍵一の目に新しかった。この美しいバジリカ聖堂※7は、1838年のパリにはまだ存在しなかった。
『モンマルトルの丘※8には、画家の方が大勢住んでいらっしゃいますよね』と鍵一がシェフに尋ねると、相手は可笑しそうに答えたものだった。『まさか。住んでるのはシカかイノシシくらいだ』……
「そういや、パリの音楽家はさ」と、叔父が水を向けた。
「おまえがピアノや作曲を習ってた音楽家は、ジビエなんか相当食ってたんじゃないか。美食の都だもんな」
「イノシシかどうかは分かりませんが」鍵一は笑って、自分の椀に焼き豆腐を多めによそった。
「フランツ・リストさん……に似た先生が、イタリアでは※9肉料理をたくさん召し上がったそうです。ロッシーニさん……に似た方の夜会では、ステーキにフォアグラをのせたごちそう※10が出たとか」
「なんとまア、19世紀の音楽家に似た先生がたくさんいるもんだな」
叔父は感心してみせて、イノシシ肉を次々と鍋に浮かべた。湯気にたちまち、大輪の牡丹が咲いた。
「パリでは観光もしたのか」
「はい、少しは。フランス語とピアノの勉強で手一杯だったもので、セーヌ川沿いを散歩する程度でしたが」
「ふうん」と頷いて、「ノートルダム大聖堂はどんなだった?」
「すごく綺麗でしたよ」
たちのぼる湯気を仰いで、鍵一は19世紀パリの薫りをなつかしく思い起こした。
「夕暮れは特に綺麗でした。セーヌ川に大聖堂が映って、鐘の音がよく響いて……」
「じゃア、修復はけっこう進んでるのか」
「修復?」
箸が止まった。叔父は何でもない顔つきで続けた。
「去年の4月に大きな火事があったじゃないか」※11
「火事?」
思わず聞き返した声が2オクターブ※12跳ねた。「火事があったんですか?」
おそるおそる尋ねた鍵一に、叔父はにやりと笑った。
「おまえ、なにか隠してるだろ」
つづく
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鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。
♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年)
京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―
江戸時代の俳人・与謝蕪村(1716-1784)が牡丹鍋を詠んだ一句。イノシシは、文字通り「薬」になるほど栄養満点の食材です。
仏教では殺生が禁じられているため、江戸時代には肉食は禁忌とされていました。しかし実際には、イノシシ肉を「牡丹」、シカ肉を「紅葉」と言い換えるなどして、肉食が普及していました。
建築様式の一種。モンマルトルのサクレ・クール寺院はこれに当たります。「バシリカ」の名称は、ギリシャ語で「王の列柱廊」を意味する「バシリケ」に由来するといわれています。
フランス・パリで一番標高の高い丘。19世紀半ばまでは葡萄畑の広がる農地でした。丘の上には女子修道院があり、ワインが製造されていたといわれています。
フランツ・リスト(1811-1886)は1837年7月から39年11月にかけて、マリー・ダグー伯爵夫人とともにイタリアに滞在しました。イタリア各地で目にした風景や芸術作品を着想源として、リストは『巡礼の年 第2年「イタリア」』等のピアノ独奏曲を制作しています。
ロッシーニ(1792-1868)が考案したとされる料理。
名称は「牛フィレ肉のロッシーニ風」、「トゥルヌド・ロッシーニ(仏: Tournedos Rossini)」とも。牛フィレ肉のステーキの上にフォアグラを載せた、とても贅沢なステーキです。美食家のロッシーニは、音楽と料理を楽しむ夜会を開催するほか、パリの一流レストランのシェフ達と親しく交流していました。ロッシーニの名を冠したフランス料理は数多く存在します。
2019年4月、フランス・パリのノートルダム大聖堂で火災が発生し、尖塔とその周辺の屋根が焼失しました。2022年現在、少しずつ修復作業が進められています。
音楽用語で「完全8度の音程」の意。2つの音の振動数が1:2となる音程のこと。