第80話『鳴弦貴船♪』
まずは、『夢の浮橋』のモチーフを活かしてピアノ曲を制作する事とした。静寂と集中を求めて現代へ戻ると、叔父のすむ京都貴船※1に身を寄せた。恩師の著書を紐解きつつ、『夢の浮橋変奏曲』※2の作曲は徐々に進む。2月3日、鍵一は叔父とともに貴船神社の節分祭に赴いた。
儀式は鳴弦神事に移った。※3大きな弓を携えて神主が現れた。四方に礼をして正面に立つと、紅白の破魔矢をつがえた。複雑な手さばきが、ハープを弾くときの手つきに似ていた。引き絞り、引き絞り、
――今だ。
鍵一の思うよりわずかに早く、アウフタクト※4で矢が放たれた。
東風
を切って飛ぶ音が、みごとな放物線を描いて境内におちた。辺りに清涼な薫りが満ちた。
続いて大きな弓の弦を、握りしめてはゆっくりと引く。ここぞという箇所のピッツィカート※5に挑むように、弦はそのちからの頂点で一時静止した。途端、ぱッと放たれた。音が空を切った。山の彼方へ轟く音が、たしかに邪気を射抜いた。
音楽みたいだ、と鍵一は思った。まだ音楽というものが、教会や王宮に捧げられていた時代の音色……
♪バッハ作曲:インヴェンション 第14番 BWV 785 変ロ長調
さて、節分祭は大詰めを迎えていた。「鬼は外、福は内」の掛け声とともに勢いよく豆が撒かれた。肩にも頭にもひしひしと豆が降り注いで、鍵一は笑いをこらえた。となりで叔父は笑っていた。足元には砂利に混じって大量の豆が散らばった。
神事のあとは、各々参拝の流れになった。叔父が知り合いと話し込んでいるあいだ、鍵一は境内に奉納の記録をみた。高砂※6。花筐※7。鞍馬天狗※8。掲げられた演目を眺めていてふと、
(『夢の浮橋』も、天上に捧げられた音楽なのかな)
そんな思い付きが、たしかな実感を伴ってきた。
「節分は楽しいなア。ちなみにさっき豆撒きに使った右から三番目の枡は、京都画廊連合を代表して俺が奉納したんだ」
へえそうですかと叔父に生返事をしながら、鍵一はまだ考えていた。
(遠い昔にも、季節の変わり目には神殿にあつまって、音楽を奏でていたんだろうな。歌をうたったり、リラ※9を弾いたりして、天上の神々に祈りを捧げていた。健康でいられますように、とか、畑の葡萄が実りますように、とか……願いを込めて音楽を奉納した。そうして奏でられた曲こそ、『夢の浮橋』だったのかもしれない。水の流れに乗って世界中に伝わって、絶えても何度も復活したというからには、演奏されるべき理由があるから……)
思案しながら仰いだ空に、見慣れぬ白い橋が架かっている。西から東へ空を横切って、白い橋らしきものが伸びている。わッと声をあげて、鍵一は石段の途中で立ち止まった。
「叔父さん、『夢の浮橋』です」思わず叔父の袖を引いた。
「なんだ、なんだ」
「あれを見てください、いったい何でしょう?」
叔父は空と鍵一とを交互にみて、それから堰を切ったように笑い出した。鍵一は鼻白んだ。
「なにがおかしいんですか」
「鍵一、あれは飛行機雲じゃないか」
いわれて初めて、自分のとんでもない間違いに気づいた。耳まで真ッ赤になった鍵一に、叔父は「どうした、どうした」と尋ねた。
「いえ、あの、飛行機雲をみるのが久しぶりだったもので……」
「久しぶりッてお前、留学先でも飛行機雲くらい見たろうに」
甥の肩をかるく叩いて、古美術商はようやく笑いおさめた。黙って石段を下りていて、ふと「牡丹鍋でも食うか」と言い出した。
「……牡丹?」
「貴船名物、イノシシ鍋」
つづく
日本最大級のオーディオブック配信サイト『audiobook.jp』にて好評配信中♪
第1話のみ、無料でお聴きいただけます。
鍵一が作曲するピアノ独奏曲。幻の名曲『夢の浮橋』のモチーフを活かし、12の変奏から構成されます。変奏曲はそれぞれ、19世紀の旅で出会った人々(と猫)の肖像を表しています。実際には作曲家の神山奈々さんが制作くださり、ピアニストの片山柊さんが初演をつとめて下さいました。2022年、本作の音楽劇とともに改訂初演されます。
♪『夢の浮橋変奏曲』&音楽劇が聴けるピアノリサイタル(2022年)
京都・パリ 2つの古都のための片山柊ピアノリサイタル ―音楽劇『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』他―
鳴弦神事(鳴弦の儀)とは、弦の音で邪気を祓う儀式です。貴船神社(京都市左京区)では、毎年2月3日の節分祭で鳴弦神事が行われています。
音楽用語で「弱起」の意。第1拍(強起)ではなく、弱拍から楽曲やフレーズが始まること。
ヴァイオリンやハープなど、弦楽器・撥弦楽器の奏法の一種。指で弦をはじく奏法。略記は「pizz.」。
古代ギリシャ時代の竪琴、撥弦楽器。
ギリシャ神話では、伝令の神ヘルメスが、兄のアポロン(詩歌・音楽など芸術の神)に贈った楽器とされています。