ピティナ調査・研究

第22話『Bon Voyage(良き旅を)♪』

SF音楽小説『旅するピアニストとフェルマータの大冒険』
前回までのあらすじ
18歳の新星ピアニスト・鍵一は『19世紀の音楽史を完成させる』という極秘ミッションを携え、1838年のパリへとワープする。リストのすすめでサロン・デビューを目指すさなか、ウィーンの大音楽家・チェルニー氏から贈られたのは、幻の名曲『夢の浮橋』の一節であった。パリ・サロンデビュー修業の一環として、鍵一は『夢の浮橋 変奏曲』の作曲に挑む決心をする。京都で創作に取り組むため、鍵一は寂しさをこらえて、音楽家たちに別れを告げるのだった。
Bon Voyage(良き旅を)

「ありがとうございます、シェフさん、ヒラーさん、リストさん。行ってまいります」
「あ、ケンイチ君。これ餞別ね」
と、『外国人クラブ』据置のピアノの裏から立派なトランクが引き出されて、鍵一を驚かせた。
「ヒラーさん、これは……!?」
「ケンイチ君が清書してくれた楽譜。と、おれたちから少々贈り物を」
そっと蓋をひらいて見れば、アルカンの『12か月集』※1が、ヒラーの『妖精の踊り(作品9)』が、ベルリオーズの『アイルランド歌曲集』が、リストの『旅人のアルバム』が、そのほか色々の品々が美しい 薄葉紙 に包まれている。
(宝の山……!)
「皆から『見送りが出来ないかもしれないから、ケンイチ君によろしく』ってさ。トランクごと進呈するよ。中身は船の中でゆっくりご覧」
「ぼく如きのために、そんな……ありがとうございます」
「こちらこそ礼を言うよ。ありがとう。きみが手伝ってくれたこの3ヵ月間、おれたちは音楽家の本分たる作曲や演奏活動に打ち込めたからねえ。アルカン君などはきみの正確な働きぶりを非常に気に入って、『いずれヅィメルマン先生に紹介して、パリ音楽院長のケルビーニ先生へ引き合わせようか※2』なんて目論んでいるよ。冗談や思い付き、ではなさそうな口ぶりでね」
「雑用程度でしたが、お役に立ちましたら良かったです」
するとリストが可笑しそうに笑った。
「ケンイチは、あの仕事を『雑用』やと思うてるんか?」
「?」
「ウチは、自分の曲に『赤』を入れてくれるアシスタントを初めて見た。あれは『雑用程度』のことやないで。大事な創作プロセスのひとつや」
と、『旅人のアルバム』の一節を華やかに弾き流してみせる。これには鍵一、耳の奥までじんわり沁みた。

♪リスト作曲 :巡礼の年 第2年「イタリア」 S.161/R.10 A55

この3ヵ月間に鍵一がもっとも注力したのは、音楽家たちの新曲の書き取りであった。彼らがレストラン『外国人クラブ』のピアノで代わる代わる弾いてゆくのを、ひたすら聴き取って五線紙に清書するという仕事である。
(最初に取り組んだのは、リストさんの『旅人のアルバム』だった……!現代では『巡礼の年・イタリア』として有名な、あの名曲♪)
まずおもしろかったのは、鍵一が現代で聴き慣れた曲と、1838年パリで作曲者本人の弾く曲が、同じ曲であっても細部が異なっていることであった。さらに、即興と作曲に長けた音楽家たちは弾くたびにアレンジを変えた。このややこしさは鍵一を夢中にさせた。さて、作曲家の着想が、初稿から改稿、出版、そして世代から世代へ弾き継がれながら、どのように姿を変えてゆくのか?
(その変遷の一端に、ぼくが関われるなんて!あれは未来人ならではの楽しみだった。B先生が熱心に古楽譜を集めていらっしゃる気持ちも、今ならわかる)
かくて、鍵一は初稿の楽譜に赤色でしるしをつけては、
『1度目の演奏と2度目の演奏では、このフレーズのアレンジが違いました。どちらを採用しましょうか?』
『この音が調性から浮いていて印象的でした。意匠でしょうか?もし弾き誤りでしたら修正いたします』
『この展開部は先週楽譜に書き起こした別の曲とほぼ同じですが、このままでよろしいでしょうか?』
事細かに音楽家たちへ尋ねていたのである。答えが返ってくるたび鍵一は心底ワクワクして、自分の書いた初譜と、訂正の入った譜とを、何時間でも見比べていた。……
「すみません、出過ぎたことを……。楽譜は後世まで残るものですし、もしや書き誤りがあってはと」
「それでええのや。あの『赤』のおかげで、ウチらは曲を洗練させることが出来た。ああいう地道なことを楽しめるのやったら、ケンイチには充分に音楽家の資質があると思うで。『夢の浮橋 変奏曲』の作曲、がんばりや」
「はいッ。春には楽譜を持って、ここへ戻ってまいります。ぜひまたご指導下さい」
鍵一はパテ・アンクルート※3の弁当と三種の神器、それにトランクを携えて、シャキッと音楽家たちに向き直った。猫のフェルマータがもう外へ出たそうに、「ニャア」前足で扉を掻いている。
「それでは皆様、お元気で……!」
「Bon Voyage(ボン・ヴォヤージュ)♪」

イラスト

冬の朝へ踏み出すや、全身を光に包まれる。眩しさをこらえて、鍵一は走り出した。息が白い。澄んだ空が青い。抱えたトランクが快く重い。レストラン『外国人クラブ』から agiatamente ※4に響き出したメロディがたちまち遠のいてゆくのを、鍵一は振り返らなかった。

♪ショパン作曲 :ノクターン(夜想曲) 第5番 Op.15-2 CT112 嬰ヘ長調※5

つづく

◆ おまけ