第18話『前略 旅するあなたへ(Ⅱ)♪』
親愛なるマダム
遠く海辺より、素敵なお手紙と栞をありがとうございます。鍵一です。人から手書きのお便りをいただく、という機会がぼくには大変少ないものですから、大変ドギマギしました。五線譜にメッセージを綴っておりますこの瞬間にも、相変わらずドギマギです。インクがところどころ滲んでいるのは、12月のパリの早朝の寒さのためだけではありません。
嬉しさと共にお伝えしたい事が多々あり、勇んで返信の筆を執りましたが、残念ながらぼくには文章のセンスも技術もありません。乱文お許し下さい。ぼくにとって、本音を言葉にすることは非常に難しいのです。自分の母国語である日本語でさえそうです。
(同様に、本音をピアノで表現する事も、ぼくにはまだ難しいことです。時々絶望的な気持ちになりますが、手持ちの方法がそれしか無いのですから、それを磨いてゆくほかないですね……)
さしあたって、まず手紙の目次を書いておきます。
- 旅について
- 透明人間が創る『1838年パリの色見本』
- みなさまの創作の舞台裏
- 詐欺師、あるいは美術商、または京都人、かつ画家、つまるところ怪しげで、チャーミングなぼくの叔父
- ベートーヴェンのお墓のレプリカの話
- ふたたび、旅について
これで、話が横道に逸れることはありません。その点は安心してお読みください。
♪旅について
11月吉日にサンドさんがショパンさんと出立なさった旨、ぼくはリストさんから伺いました。パリの社交界は今、その噂で持ちきりだそうです。ドラクロワさんをはじめ、おふたりに近しい方々は大変寂しがっておられます。
プレイエル社のピアノの件は、『外国人クラブ』の音楽家の方々の間でも、ゆゆしき事として話題に上っています。ヨーロッパの冬の旅は、陸路も海路も輸送の問題が深刻ですね。
ともかくもピアノは12月中旬にバルセロナの港を出たそうですから、この手紙が着く頃には、きっとお手元に届いているでしょう。一日も早い到着を願っております。
♪透明人間が創る『1838年パリの色見本』
先日のお手紙では、創作についてのアドバイスをありがとうございます。
『どれだけ模倣が上達しても、自分の文体を獲得できるわけではない』というご指摘、仰るとおりだと思います。
そう納得した上での、これはぼくの開き直りなのですが……『文体を持たない』ことが、今のぼくの強みなのではないか、とも思うのです。
色に喩えるなら、ぼくは無色透明です。写譜を通じて、音楽家の方々それぞれの色(個性)がぼくの中へ流れ込んで来るのを、ぼくは心地良く受け入れます。自分の色が無いものですから、濁ることも反発することもありません。
おかげで、この3ヵ月の間に、ぼくの中には『1838年パリの色見本』とも言うべきものが蓄積されました。この美しい色見本を参照すれば、ぼくでも自分なりに『夢の浮橋 変奏曲』を創れるのではないか、と思っています。
(サンドさんは、ぼくに群青色のイメージを重ねてくださっているのですね。畏れ多く、でも嬉しいです。ぼくが自分の色を獲得するのは、もう少し先の事になりそうですが……いつかその日が来た時のために、群青色は大事に仕舞っておきます)
♪みなさまの創作の舞台裏
例の『夏の夜』のふしぎな体験※1以来、ぼくは『外国人クラブ』の音楽家の皆様にくっついて、アシスタント業に精を出しました。なんといっても、皆様の『創作の舞台裏』を間近に見たことが、ぼくの最大の収穫です。パリ社交界で活躍するヴィルトゥオーゾの皆様が、いつ、どういうきっかけで、どのように作曲しているかを、つぶさに見ることが出来ました。これがぼく自身の創作に取り掛かる上で、大変参考になったのです。
◇フェルディナント・ヒラーさんの場合※2
『博学多才』と称されるヒラーさんは、ザワザワした場所のほうが作曲に向いていると仰います。オペラの幕間やカフェでのティータイム等、人の多い場所でよく楽譜を書いていらっしゃいます。また、筆が大変速く、それでいて常に完璧な仕上がりです。
先日、イタリア座からモンマルトルのパッサージュまで馬車でお供をしたのですが、ヒラーさんはぼくと『外国人クラブ』の新作メニューについて雑談しながら、仕立屋の領収書に目を通しながら、御者とジョークを飛ばし合って大笑いしなら、たった20分足らずの間にワルツを一曲書き上げてしまいました。馬車を降りるやいなや、モンマルトルから速達で出版社に楽譜を郵送なさって、その曲が翌週にはもう、マドレーヌ大通りの書店に並んでいましたのでびっくりです。
『書いておかないと忘れちゃうからさ』
というのが、ヒラーさんの口癖です。
『俺は読んだ本も観たオペラも会った人の名前も、書き留めておかないとすぐ忘れちゃうんだよ。でも日記なんて書くのはまだるっこしいからさ。ぜんぶ曲にしちゃうわけ。』
だそうです。なるほど……!
思うに、ヒラーさんの頭の中では、インプットとアウトプットが一直線に繋がっているのですね。外界の刺激(インプット)が多ければ多いほどアウトプットが充実するという、芸術家として最強の『思考のしくみ』をお持ちです。いつかぼくがこう成れたら、どんなに素晴らしいでしょうか。
◇アルカン, シャルル=ヴァランタンさんの場合※3
ショパンさんと親しいアルカンさんは、ショパンさんに気質が似ていらっしゃるように思います。
秘密の多いところ。しれっと皮肉を仰るところ。その際にも気品とユーモアの漂うところ。華やかな社交行事もこなされるけれど、本質的には孤独を愛して、静かな生活を望んでいらっしゃるところ。
そのアルカンさんいわく、
『親しく、懐かしく、かつ世間から隔絶されていて、自分の心が真に自由になれる秘密の部屋が、創作に向いている。』
とのことです。
ぼくは以前、エラールさんからのお使いで、アルカンさんのアパルトマンに楽譜を届けたことがあります。表扉から垣間見えた本棚は天井まで届くほど巨大で、圧倒されました。あの書斎こそが、アルカンさんの『創作に適した秘密の部屋』なのでしょうか。
また、アルカンさんは、作曲に取り掛かる前の独自ルールがある、とも仰っていました。
まず水を浴びて身を清め、それからヘブライ語の聖書を朗読する……眼をつむって聖書をひらき、出た章を必ず最初から最後まで、声に出して朗読する。すると精神が研ぎ澄まされて、清らかな心で創作に向かえるそうです。アルカンさんはその一連の動作を『魂を整える』と表現していらっしゃいました。ぼくは無宗教の人間ですが、その神聖な感覚は、わかる気がします。
◇エクトル・ベルリオーズさんの場合※4
ベルリオーズさんが『言葉と音楽のマリアージュ』を探求なさっていることは、『夏の夜』にご一緒してよくわかりました。シェイクスピアやゲーテの戯曲に身体ごと沈み込んで、彼岸から着想を掴み取ってくるようなベルリオーズさんのやり方は、ぼくが真似するのは少々危険かもしれません。
しかし、この方の姿勢からは多くを学びました。ベルリオーズさんだけでなく、ヨーロッパの芸術全体が、シェイクスピアやゲーテの言葉に大きな影響を受けていることも実感しました。『言葉と音楽のマリアージュ』を探求するかどうかはさておき、ヴィルトゥオーゾ必携の教養書たるシェイクスピアを、ゲーテを、ぼくはもっと深く学びたいと思います。
……そういえば、例のふしぎな体験※1から数週間経った秋晴れの日、芸術橋の近くでベルリオーズさんを目撃しました。
頭に孔雀の羽をさし、ギターを小脇に抱え、ギリシャふうのマントをなびかせて、なぜか大きな麻袋を担いで、あの方は全速力でセーヌ川の岸辺を走っていました。口を大きく開けて、天を仰いで、うれしそうに笑いながら。
きっと良い曲が書けたのですね。パリの人たちは皆ベルリオーズさんのことをご存じで、ニコニコと見守っていらっしゃいました。麻袋からは何かごちそうがこぼれ落ちていたとみえて、ベルリオーズさんが走り去った後には、小鳥がたくさん集まっておりました。ピヨピヨ。
◇フランツ・リストさんの場合※5
意外にも、いちばん参考にならなかったのがリストさんでした(笑)
やはり霊感を得て作曲する方なのですね。真似のしようがありません。もちろんリストさんのそれは、『鍛え上げたピアノのテクニックと、古今東西の文化芸術への深い造詣に裏付けられた霊感』ということですけれども……
たとえば、『外国人クラブ』が拠点としているレストランの窓辺には、シェフお手製の風鈴が掛かっています。秋の風に『ちりん』とそれが吹き揺れた瞬間、
『これや!』
いきなり叫んで、リストさんが猛然とピアノを弾き始めたことがありました。ぼくは夢中で五線譜に書き取りましたが、『ちりん』の何がどう作用してその曲が出来上がったのか、ついに理解できませんでした……
これはほんの一例です。この半年余、大変お世話になりましたが、リストさんの『思考のしくみ』は全くわかりません。唯一わかったことは、『ぼくはリストさんには成れない』という厳然たる事実です。
リストさんと親しいサンドさんなら、ぼくの困惑を察して下さるかと存じます。……
そのとき階下からピアノの音が、
espressivo
※6で響いて来た。
(ショパンさん作曲の『ヘクサメロン』第6変奏……でも弾いているのはリストさんだな。あの大きな手ならではの、華麗な装飾音のアレンジ。それにこの、艶やかな虹色の音色……)
鍵一は手紙を書く手を止めて、しばし聴き入る。ベッドから相棒猫のフェルマータが起き上がって、気持ちよさそうに伸びをした。
♪ショパン作曲:ヘクサメロン変奏曲より 第6変奏 KK.IIb/2 CT230 ホ長調
つづく
連載第12話~16話をご参照ください。
ピアノ曲事典
19世紀ピアニスト列伝
ピアノ曲事典
ピアノ曲事典
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音楽用語で『表情豊かに』の意。