ショパンと言葉(1)
ショパンと言葉
『ピティナ・ピアノ曲事典』で、シューマンとショパンのピアノ作品一覧をざっと見比べてみてください。曲のネーミングセンスが全然違うことが分かります。シューマンの曲には「謝肉祭」や「ダヴィッド同盟」といった具体的なイメージを喚起する言葉が使われています。他方、ショパンは舞曲ジャンル名(ポロネーズ、マズルカ)や、詩のジャンル名である「バラード」のように、具体的なイメージを喚起するものはほとんど見当たりません。ショパンが言葉の表現力を器楽作品に持ち込むことを好まなかったことは、皆さんもご存じかもしれません。なぜ、作曲家たちは言葉との距離感を縮めたり、保ったりしたのでしょうか。
今回の記事では、ショパンの事例を見る前に、19世紀前半に、なぜ「音楽と言葉」がそれほど問題にされたのか、見てみましょう。
音楽を語るとき、一般にあまり正確に使われていない言葉に、「標題音楽」があります。最近では「標題」と「表題」が同じ意味で使われることもあるので、題名の付いた曲は「表題音楽」と考える方も多いようです。
しかし、「標題音楽」という場合の「表題」には、特別な意味があることを押さえておきましょう。英語では「プログラム・ミュージック」と言います。フランス語では「ミュジーク・ア・プログラーム」、つまり「プログラム付きの音楽」です。「プログラム」というと、現在では演奏会等でお客さんに配る曲目を記したもののことのように思いますね。この言葉は、もともとギリシャ語で「一日の順序」を意味しますので、実際には、曲目に限らず、物事の段取りを記したもののことを指します。まず押さえておきたいのは、「標題音楽」とは次のような条件を満たす作品ということです。
- 楽譜とは別に、言葉で記されたストーリーがある
- そのストーリーは、あらかじめ聴き手・奏者と共有される
1830年の冬、フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズ(1803-69)による《幻想交響曲》が初演されました。ショパンがパリに到着する約一年まえのことです。これは、ある女性に恋する芸術家が、アヘンを飲んで奇怪な夢を見て、非現実的な世界でその女性の姿を追い求めるという筋書きに基づいています。ベルリオーズは演奏に先立って、音楽の「筋書き」を記したプログラムが配布されることを望みました。1845年に出版された楽譜には筋書きのまえに、次のように記されています。
*本プログラムは、この交響曲が演奏されるときにはかならず聴衆に配布しなくてはなりません。それは、本作の劇的な構想を完全に理解してもらうためです
標題音楽が目指したのは、音楽がドラマのように振る舞うということでした。これは、18世紀以来の楽器のための音楽(器楽)観からの大きな飛躍でした。なぜなら、それまで交響曲のような器楽曲の作曲モデルは、ドラマの筋ではなく、演説の構成法(修辞学)だったからです。ここから分かるように、「標題音楽」は、言葉を作品に持ち込まないで、つまり声楽を用いずに演劇台本のような筋を楽器によって表現する、ということした。
「言葉の助けを借りない楽器によるドラマ」という彼の構想からすると、「プログラム」は「言葉の助け」のように見えますが、彼にとって、言葉による筋がきは作品の一部ではありませんでした。ポイントは、あくまで「楽器によるドラマ」を打ち立てようとしたところにあります。だったら、「プログラム」なんて必要ないじゃないか、楽器が雄弁に語ってくれるのだから!と思われるかもしれません。しかし器楽が劇のように物語を表すという新しいコンセプトを理解してもらうには、それが是非とも必要でした。
このコンセプトが音楽家たちの間に浸透していくと、そのような詳細なプログラムも次第に不要になっていきます。じっさい、初演から25年後に出版された第二版で、ベルリオーズは《幻想交響曲》が続編の《レリオ》とは別個に演奏される場合は「プログラム」を配らなくてもよい、としています。
- 訳注:《幻想交響曲》の各楽章のタイトルは次の通り。1.〈夢、情熱〉、2.〈舞踏会〉、3.〈野の情景〉、4. 〈断頭台への行進〉、5. 〈サバトの夜の夢〉
ここからわかるように、ベルリオーズは音楽と劇に対等な地位を与えたのではなく、あくまで文学的なプロット(筋)は音楽表現様式を説明するもので、彼が味わって欲しいのは、彼が見つけ出した器楽の独自の表現でした。
ベルリオーズの新しい器楽表現は、ヴィヴァルディの《四季》に出てくるカッコウや、ベートーヴェンの《交響曲第6番「田園」》にでてくるサヨナキドリやウズラの鳴き声のように、自然を模倣しているのではありません。彼が目指したのは、ロマン主義の音楽家たちに共通する、「いわく言いがたいもの」へと聴き手を誘ってくれる音楽であり、作曲家の想像上で展開される、この世ならざるものの表現です。1830年前後から、ロマン主義に与する作曲家たちは、音楽は言葉を越えた世界、個別的な幻想的イメージの表現を目指すようになりました。ショパンと同世代のシューマンは「歌詞のないオペラ」を構想していましたし、ヒラーは《台本のないオペラ》という連弾曲を書いています。
さて、ここでちょっとブルクミュラー《25の練習曲》作品100を引き合いに出しましょう。この曲集には、それぞれの曲に「やさしい花」や「貴婦人の乗馬」といった題名が付いていますね。題名があるからといって、これらを標題音楽と呼ぶことは、少しはばかられます。これらは、なにか物語の筋を表したり、示唆したりしているわけではありません。
では、タイトルのついた小曲のことは、何と呼べばよいのでしょうか。これには「性格小品」という言葉が用意されています。英語では「キャラクター・ピース」と言いますね。描写対象の特徴(キャラクター)を捉えた作品、という意味です。メンデルスゾーンの「無言歌」や、ジョン・フィールドの「ノクターン」から次第に成熟していった性格小品は、ピアノ文化が市民に浸透するにつれて量産されるようになっていきます。
では、ショパンは、標題音楽と性格小品が流行する中で、どのようにして独自の地位を保とうとしたのでしょうか。次回は、ショパンが言葉に対してとった態度を見てみましょう。
(執筆:上田 泰史)