最後の公開演奏会の想い出~第一章「F. ショパン」3

掲載日:2012年12月14日
執筆者:上田泰史
今日ご紹介するのはマルモンテル『著名なピアニストたち』の第一章、「F. ショパン」から体調の悪化とパリ最後の公開コンサートの印象を綴った部分です。演奏会の年代は記載されていませんが、1848年2月16日にパリで行われた演奏会が最晩年のコンサートとして知られています。
[10] いかに強靭な体質といえども、死がごく急速にこれを破壊してしまうことはしばしばある。死は12年のうちにショパンのか弱い身体組織の繊維を少しずつ蝕んでいった。1837年から、この傑出した芸術家は肺病を患うようになった。友人や贔屓にしている生徒たちの熱心な看病で病の進行は一時遠ざけられた。その後、新たな体調の危機に見舞われたとき、彼はいっそう穏やかな気候を求めてフランスを離れなければならなかった。天賦の才能と気高き心を備える女性ジョルジュ・サンド婦人はショパンにとって忠実な友であったが、彼女はショパンと共にマヨルカ島に向けて出発した。医者たちがこの土地の温暖な気候を勧めたのだ。病の改善は目に見えて現れたが、それはもはや不可避的な破滅の中に刻まれた一つのステップに過ぎなかった。1840年から、病の兆候が再発し症状はさらに重くなった。肺結核は大家の強靭な意志と活力とを日に日に害しながら進行していった。
[11] この長い晩年、1845年から48年にかけてショパンの苦しみはいっそう激しくなり咳はほとんど止むことがなくなった。それでも、私はサル・プレイエルで行われた最後の演奏会を包んだ筆舌に尽くしがたい熱狂を覚えている。フランコム※1、アラール※2、彼の友人と熱烈な信奉者たちはこれらの記念すべきソワレへの協力を惜しまなかった。ショパンはひどく興奮していた。会場には親友たち、選り抜きの側近の顔が見られたからだ。彼の取り巻きは、ショパンの周囲で魔法のサークルを形作っていた。それはいわば魅力と優雅さと美とが偉大な芸術家の復活を祝福しようと集まった妖精の世界だった。そんな彼の感性、優しさ、情熱はまさに完全無欠であった。
- オーギュスト=ジョゼフ・フランコム(1808~1884)はフランスのチェリスト、パリ音楽院教授。ショパンの親友でピアニスト兼作曲家のフェルディナント・ヒラーの紹介でショパンと親交を結ぶようになる。ショパンはフランコムと《マイアベーアの『悪魔のロベール』の主題に基づく演奏会用大二重奏曲》(1833)を共作し他のみならず《チェロ・ソナタ》作品65をフランコムに献呈、1847年にショパンとの共に初演。フランコムの方もショパン作品のチェロ編曲を手がけている。メンデルスゾーン、シャルル・アレ、モシェレス、リスト、アルカンら数々の著名なピアニスト兼作曲家たちから絶大な信頼を得、献呈された曲も多い。
- ジャン=デルファン・アラール(1815~1888)はフランスのヴァイオリニスト、パリ音楽院教授。1835年に弦楽四重奏団を設立、室内楽曲の普及に大きく貢献。上記のフランコム、ピアニストのアルカン、フランシス・プランテとピアノ・トリオを組み度々公開演奏会に登場した。