ショパンと弟子たち

掲載日:2012年12月20日
執筆者:上田泰史
今日ご紹介するのはマルモンテル『著名なピアニストたち』の第一章、「F. ショパン」から教師としてのショパンに触れた部分です。彼の弟子たちはショパンに対して一種の信仰心に近い感情を持っていたようです。
最後の段落では19世紀の音楽知識人F.-J. フェティスのショパン評に批判を加えていますが、フェティスの批評の方の原文はまだ見つけられていません。フェティスは有名な人名事典『総音楽家事典』を書いておりますが、そこでのショパンについての記述は至って公正なものでむしろ前向きな評価をしています。著者のマルモンテルは批評を正当化するためにテキストに注を施すべきでしたが、流石に130年ほど先の未来にこうして読まれることまでは想定していなかったのでしょう。
[12] ショパンのレッスンの助言は、パリの上流貴族階級の間で非常に高い人気を誇った。ショパンは彼女らにとって比類なき熱愛の対象だったのだ。上品な物腰、洗練された礼儀、何かにつけて見せる少々気取った、垢抜けた振る舞いからしても、ショパンは優雅な貴族の模範的教師だった。彼は熱烈に歓迎され、そこに大変深い友情表現のすべてを見出していた。
[13] ショパンは夢想的でメランコリックな性格からロマン主義に著しく傾倒し、そしてまた冷たく堅苦しいスコラ的技法にあれほど反対して青空の下での学校さぼりをやっていたにも拘らず、ショパンは古典的大家を愛して止まなかった。モーツァルトは彼の神であり、J. S. バッハはすべての生徒に勧めるお気に入りの大家の一人だった。
[14] ショパンのレッスンを受け彼の様式や手法を吸収するという多大な利益を蒙ったピアニスト兼作曲家としてグートマン※1、リスベルク※2、そして筆者の親愛なる同僚ジョルジュ・マチアス※3 の名前を挙げない訳にはいかない。シメー妃、チャルトルィスカ妃※4、エステルハージー公爵夫人、ポトツカ・ド・カレルギス公爵夫人、デスト公爵夫人、ミュレール嬢、ド・ノアイユ嬢はショパンの愛情を注いだ生徒であったし、デュボワ(旧姓オメアラ)婦人※5も贔屓の生徒で、その才能によって師の特徴的な伝統と方式を非常に良く守った女性の弟子の一人に数えられる。
[15] ショパンの生徒は、師に対して賞賛以上の感情を持っていた。それは真の崇拝である。苦痛で健康を著しく害した晩年、ポーランド一流の名家の女性たちは彼の看護人になることを切に望み、賛嘆に値するほど献身的に尽くしながら、慈善修道女たちの辛く、しかし尊敬に値する務めを妬んだ。フェティスがショパンとその性格、すなわち一般の芸術家の二人分に値するような人物に下した手厳しい評価はそれゆえ不正確なものと考えなければならない。あのような献身的精神を掻き立てられる性質の人間が不誠実で、自己中心的で陰険だなどという判断を、どうして認められようか※6。ショパンは彼固有の才能に宿る精神、心、大芸術家に相応しい気高く繊細な感情を持っていたのであり、我々が見たいのはこの詩的な人物が、あたかも貴重でごく純粋な金属製の薄いメダルのように輝くところなのだ。
- アドルフ・グートマンAdolf Gutmann(1818~1882)。ショパンがとりわけ好意を寄せた弟子の一人。ショパンは《スケルツォ》第三番 作品39をグートマンに献呈しているが、「わが友グートマンへ」という献辞は両者の親しさを示す。男性の弟子にショパンが作品をささげたのは彼が唯一であり、互いを「きみtu」で呼び合う間柄だった。グートマンは作曲家としても優れ、《10の演奏会用練習曲》作品12はショパンに献呈された力作。
- シャルル・ザミュエル・ボヴィ=リスベルクCharles Samuel Bovy-Lysberg (1821~1873)。スイスのピアニスト兼作曲家、1835年にパリに来てショパンの弟子となる。パリの動乱期(48年の二月革命、70年の普仏戦争とコミューン)の際はジュネーヴに帰国して音楽院で教鞭をとった。作品は繊細な魅力を持つ小規模な性格小品が多数ある他、マルモンテルに献呈した《不在:ロマンチックなソナタ》作品85など。
- ジョルジュ・マチアスGeorge Mathias (1826~1810)。フランスのピアニスト兼作曲家。カルクブレンナーとショパンに師事。クララ・ヴィークは1839年のパリ訪問の際にこの少年の才能にいたく感じ入り、「第二のリスト」と評した。1862年からはパリ音楽院教授となり、門弟にはラウル・プーニョやイシドール・フィリップ、ポール・デュカスら20世紀初頭まで活躍した著名なピアニスト/作曲家が含まれる。数々の交響曲、ピアノ三重奏曲のほか、ピアノ・ソナタ、練習曲集、性格小品、編曲集など、100点余りの作品を出版。
- チャルトルィスカ、マルツェリーナ公爵夫人。ポーランドの大貴族出身の愛好家。愛好家とはいえ、貴族の女性ということで職業音楽家になることが憚られたにすぎず、ショパンの教えをもっとも忠実に受け継ぐ演奏をすることに定評があった。
- カミーユ・デユボワ(旧姓オメアラ)婦人。マチアスと同じく、はじめカルクブレンナーに師事、43年から5年間ショパンの下で学び職業ピアニストとしても成功した(Cf. エーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』、米村治郎、中島弘二訳、音楽之友社、241ページ)。彼女のレッスンで用いた楽譜に施されたショパンの指使いは、ショパンのピアニズム研究の重要な資料となっている。
- フェティスFrançois-Joseph Fétis (1786-1871)は音楽理論化、音楽史研究者、著述家、作曲家として活躍したベルギーの知識人。マルモンテルはフェティスの8巻に亘る『音楽家総列伝Biographie universelle des musiciens』第二版(1860~1865)を伝記的記述の骨組みとして用いている。しかし、このフェティスの人名事典第二巻のショパンの項目には、マルモンテルが指摘するようなショパンの人格についてのネガテイヴな判断は見られない。フェティスの別の記述に対する批判か。
文・翻訳・脚注:上田泰史