フェイスブックと「歴史的な出来事」

掲載日:2012年11月1日
執筆者:上田泰史
日常生活の中において、私たちの関心は普通、身の回りで現在おこる出来事に向けられます。朝起きたら、インターネットや新聞、テレビ、ラジオなどでニュースをチェックしたり、学校や職場に行けば同僚や友人と最近あった出来事を語り合ったりします。つまり、最近の出来事は、現在の自分に影響を及し、日々の行動に刺激を与えているということです。
ニュースで流れる「出来事」の価値は、自分がそれを現在という時間の中で他者と共有している、直接的であれ間接的であれ、その出来事に自分が関わっているという認識の中で生まれます。しかし、魚や野菜と同じように、出来事についての情報にも鮮度があります。現在、既に報道された一ヶ月前のニュースを提供されても、それは既に過去の歴史的な出来事であって、既にニュースとしての出来事の資格を失っています。そこには、初めて接するニュースに対して覚える感動や刺激はありません。仮に自分が一ヶ月前の出来事を初めて知ったのであれば、それは不完全にしかニュースとしての資格を持ちえません。というのも、自分以外の人は大概その出来事を知っているので、その情報にはニュースとしての社会的有効性を失っているからです。つまりそれは単なる「個人的なニュ-ス」に過ぎません。
アクチュアルな出来事と歴史的な出来事を比較したとき、フェイスブックは明らかに前者の普及に向いているように思います。新しい出来事がシェアされれば、誰もがまずその出来事と自分がどの程度関係あるかをチェックします。「個人的なニュース」もたくさん飛び交いますが、情報は即座に発信者と繋がっている「友達」にシェアされるので、限られた範囲で社会的に有効化され、「社会的なニュース」に変容します。
これに対し、歴史的な出来事をフェイスブックで扱う場合には社会的有効化のプロセスに特別の難しさがあります。というのも、歴史的出来事の内容そのものはニュースと違って、情報受信者の直接的な利害や行動に結びつきにくいからです。例えば、ある受信者が未知の作品や作曲家に関するデータ(誰が、いつ、どこで何をしたという内容)を受け取っても、そこに現在の自分との接点を見出すことができなければまず「個人的なニュース」にはなり得ません。せいぜい、「ふ~ん」「へえ~」止まりです。その時点でこの話題を他者と共有するアクションへの可能性は低下し、社会的なニュースとして有効化される可能性は失われてしまいます。
「アクチュアルな出来事」と「歴史的な出来事」を食に例えるなら、「ニュース」としての出来事は刺身のように鮮度が命の素材、これに対し歴史的出来事は貯蔵庫に保存され、これから様々に味付けされる可能性のあるお米といったところでしょうか。このような両者の違いを認識すると、歴史的出来事を社会的に有効化するためにはむき出しのデータ、つまり固い米粒をお腹のすいた他者に提供するだけでは殆ど意味がないということが分かります。お米はふっくら炊いて、時にはバターやハーブ、各種スパイス味付けして初めて美味しく頂くことができます。同じように、歴史的出来事の提供者は、過去の出来事と現在との結びつきを常に探し求め、素材(=歴史的出来事)を元に一つの脚色されたストーリーを編み上げる必要があります。これが「歴史的記述」であり、その担い手が歴史学に関わる研究者です。過去の事実の羅列は歴史ではなく単なる年表であり、事実について沢山のデータを暗記しているだけでは単なる「物知り」で終わってしまいます。そうではなく、いかにデータを味付けし、現在的な問題を提示することができるかが問題になってきます。しかし実際にそのように「よく調理された」歴史的な文章を書いて日々提供するというのはなかなか難しいもので、少しずつ力を磨いていくしかありません。
ところで、「国家の歴史」や「音楽の歴史」のように、個人の歴史と比べて「大きな」歴史は、一見、日々のニュースが私たちに与えるほどには日常生活において直接的な影響力を持たないように思えます。しかし、社会を秩序づけられた個人の集合として見た場合、やはり私たち一人一人は共同体が長い時間をかけて形成してきた歴史認識の枠組みの中で生きていると言わざるを得ません。近代的な市民社会においては個々人の行動に対して様々な自由が保障されていますが、その自由は単なる我儘ではなく、法の下の自由です。法は自由と同時に多くの義務を課し、その義務を果たしながら、私たちは社会生活を送る権利を享受しています。そしてこの法は普通、共同体の歴史認識を踏まえて起草され議会で承認され、効力を発揮します。個人は、法の下で生活を営む限り、ある歴史認識の枠組みの中で生きているということになります。
これと同じように、私たちが日々営んでいる音楽的な活動、とりわけ「クラシック」と呼ばれる西洋芸術音楽に関わる活動もまた、「音楽の歴史」をどのように見てきたか、という日常の背後にある理念や思想が本質的な部分で影響力を持っています。では、個人の音楽活動に影響を与えている理念にはどのようなものがあるのでしょうか。次回はこの点を具体的に見てみたいと思います。