ピティナ調査・研究

ショパンから見たカルクブレンナー。現代からはどう見る?

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ショパンから見たカルクブレンナー。現代からはどう見る?

掲載日:2012年10月24日
執筆者:上田泰史

「芸術家」と聞いて、どんなイメージを浮かべますか?
現実的な犠牲を払っても理想美を追求する。外面的充実にはあまり関心がなく、清貧に甘んじつつも内面的には洗練された、非日常的な、崇高な作品を生み出す。
このステレオタイプを代表する音楽家といえば、気性が荒く部屋がちら借り放題のベートーヴェン、ウィーンで質素な暮らしをしていたシューベルト、若い頃に借金を逃れて放浪していたワーグナー、などなど。そういえば、少し前にヒットした『のだめカンタービレ』の主人公は見かけによらぬ才能、散らかった部屋によってヒロインとしての魅力を際立たせていましたが、このイメージ戦略にも同じ原理が働いているような気がします。こうした芸術家のイメージは物質性よりも精神性を深く探求した芸術家像を描き出すためにしばしば有効な語り口と成りえます。

フレデリック・カルクブレンナー(1785~1849)。ショパンより25歳年上で、ショパンと同年に亡くなる。
カルクブレンナーに対するショパンの見解

さて、ここで話題を19世紀に向けましょう。「物質性」に対する「精神性」の優越という図式がどのように形成されたのか、そしてそれが歴史の語り口にどのような影響を与えたのか。この問題を見る上で、19世紀前半のパリで最も影響力のあったピアニスト兼作曲家、フレデリック・カルクブレンナーをめぐる言説はとても興味深いものです。カルクブレンナーはご存知の通り、1831年、パリに到着したばかりのショパンを熱狂させました。ショパンはその時友人ティトゥスに、自分がどれほどカルクブレンナーの演奏に心酔していたかを熱っぽく報告しています。

君は僕がどれほどエルツやリスト、ヒラーといった人たちに好奇心を抱いていたか考えも及ばないだろう。[それでも]、こうした人たちも皆、カルクブレンナーに比べればゼロみたいなものだ。[…]彼の落ち着き、抗し難いくらい魅力的なタッチ、比類ないほど均質な演奏、一つ一つの音にはっきりと示されたあのコントロールといったら、とても言葉で説明できるものじゃない。あの方はエルツやチェルニー等々のような人たち、つまるところ僕などは、足で踏み砕いてしまうような巨人なんだよ。※1

ショパンはこの「巨人」に弟子入りを打診されますが、さんざん考えた挙げ句、ポーランドの恩師エルスネルに相談した上で「カルクブレンナーの複製にはなるまい」と自らの道を歩む決心をし、申し出を丁重に断りました。

フランス・ロマン主義の画家アリ・シェフェールによるショパンの肖像画を元に制作された版画。1833年。
ショパンのメソッド草稿の序文

さらにショパンは未完のピアノ・メソッドの草稿の序文でこう書いています。

これまでピアノが弾けるようになるために無益でうんざりするような方法が数多(あまた)試されてきたが、それらはピアノの練習とはなんの関係もない。かの如きは、例えるなら頭で歩いて散歩するようなものだ※2 。これだから、もはやしかるべく足で歩く術(すべ)をしらず、ましてや頭で歩く術など知る由もないのだ。※3

ショパン研究者として名高いJ.-J. エーゲルディンゲルは、下の一節をカルクブレンナーの手導器を前提としたメソッドが念頭にあると見ています※4。この当時はピアノが急速に普及し始めたことでカルクブレンナー以外にも、新奇なメソッドの「発明者」が数多くいましたから、この一節を一義的にカルクブレンナー個人に対する反発と見ることは危険だと思いますが、カルクブレンナーを含めた他の諸メソッドへの違和感から発していることは確かです。

ショパンは畳み掛けます。

人は厳密な意味での「音楽」を演奏する術を知らないのだ。人々が練習しているような種類の難しさは、良き音楽、巨匠たちの音楽の難しさではない。そんなものは、抽象的な難しさであって、新種の「アクロバット」なのだ。

「真の芸術たる古典の尊重」 vs 「音楽家兼ビジネスマンの物質主義」という図式

単なる指の物理的な練習は、バッハやモーツァルトのような過去の巨匠の音楽の演奏に役立たないというこの意見は、過去の古典的作曲家の創作物を、彼らの人生や生活環境から切り離し、作品だけを抽出して美的要素を見出し、そこに芸術的権威を認めようとする立場を前提としています。この「真の芸術たる古典の尊重」に対するアンチテーゼとして持ち出されるのは、すでにお分かりの通り、俄かに台頭した中産階級出身の「音楽家兼ビジネスマンの物質主義」です。この対立的な図式から、カルクブレンナーの手導器やメソッド、その使用を前提とした練習曲や種々の作品は、「金儲けのために作られた、取るに足らぬ機械的メソッド」という烙印を押されるリスクが生じます。そして実際に歴史はピアノ文化という広いコンテクストの中でカルクブレンナーのような音楽家の存在意義を検討することをおろそかにしてきたきらいがあります。

ショパンとカルブレンナーの共通点、相違点

しかし、カルクブレンナーはそんなに浅はかな音楽家ではありません。彼はショパンも目を通したに違いない1831年のメソッドで、練習すべき作品を次のように分類しています。

  • 手動器を用いる当メソッド
  • クレメンティ、クラーマー、ドゥセクの作品
  • クラーマーの練習作品exercices、クレメンティの《グラドゥス・アド・パルナッスム》に含まれる
    練習作品、カルクブレンナー、モシェレス、ベルティーニ、シュミット、ケスラー、モンジェルー等々の練習作品
  • J.S. バッハ、ヘンデル、C. P. E. バッハ、アルブレヒツベルガーのフーガ
    フンメル、モシェレス、フィールド、アダン、カルクブレンナー、チェルニー、ピクシス、ベルティーニ、ヴェーバー、H.エルツ、リースの作品、それからピアノのために書かれたすべての古典的な作品

ここでは個々の作曲家について注釈を付けることはしませんが、ここには少なくともバッハ父子、ヘンデル、同時代の正統的な古典の継承者としてショパンも敬意を評していたモシェレス、最後のカテゴリーにはベートーヴェンの名前が単独で上がっているのがわかります。つまり、カルクブレンナーは過去の巨匠の作品に精通していたのです。さらに、カルクブレンナーがパリ音楽院で師事したルイ・アダンは、自ら編纂したパリ音楽院公式メソッド(1804)の中でバッハ、モーツァルトを始め多数の作品を、学ぶべき過去の巨匠として紹介し、楽譜を掲載しています。つまり、カルクブレンナーとショパンは根本的には「古典の尊重」という点で共通していたのですが、ピアノ演奏の方法論について意見が決定的に相違していたというのが正しい見方でしょう。

近代的な芸術家像から少し距離を置いて過去を見つめ直す 

にもかかわらず、一般レベルでの歴史認識では、初期産業時代の必然的帰結として現れた「手導器」のような演奏補助器具を開発したり、そのためのメソッドを売り出したりする音楽家をそうでない音楽家との関係においてことさらに貶める傾向にあります。実際、J.-J.エーゲルディンゲルのような一流の専門家でさえ、カルクブレンナーのメソッドを十分研究した上ではありますが、「野蛮な方法」と表現しています ※5。無論、これも関心をショパンに惹きつけるための巧みな文章戦略なのですが、カルクブレンナーはじめ、ショパンが関わった音楽家たちへの歴史的関心を伝えるためにも、なるべく中立的な視点で物事を見ていくという視点を忘れるべきではないでしょう(とはいえ、エーゲルディンゲルが用いるような修辞上の戦略は、個々の話題への関心を惹きつけるための演出として必要だと思っています)。そのためには、18世紀後期から19世紀初頭のフランス革命と前後して生まれた「音楽家とは金儲けに組みせず、純粋に古典と向き合う崇高な芸術家」という近代的な芸術家像から少し距離をおいて過去を見る視点が必要です。

音楽の歴史を学ぶということ

現代の私たちが歴史的にショパンなりベートーヴェンを理解しようとするなら、現在私たちがそれぞれに持っている歴史観の性質をまずよく見なければなりません。過去の作曲家を理解するということは、映画の主人公に感情移入することではなく、できるだけ中立的な立場に立って様々な要素を比較・検討することから始まります。音楽の歴史を学ぶということは、音楽の愛好を前提とはしていても、これは「私の大好きな本物の芸術家」でこちらは「二流の取るに足らぬ芸術家」といった結論を導くことを目的としていません。その重要な目的のひとつは、人間の生きた社会、文化における様々な音楽・音楽家像、価値体系を知り、現在と比較することで新たな視点を紹介し、生きた音楽活動を刺激していくことだと思います。そしてこの歴史探訪の楽しみを有効化する主体は、歴史的言説の発信者であると同時に、現代を生きる音楽家、聴衆、読者として音楽活動を担う多くの方々にほかなりません。


  • J-J. EIGELDINGER, Chopin, vu par ses élèves, Paris, Fayard, 2006, p.133.
  • « marcher sur la tête ». 米谷/中島訳では「逆立ちして歩く」となっているが、フランス語ではこれには別に「手で歩く」« marcher sur les mains » という表現がある。ショパンが「頭で歩く」という表現は、逆立ち以上にありえなことを表現しており、非常に強烈な皮肉である。Cf. ジャン=ジャック・エーゲルディンゲル『弟子から見たショパン―そのピアノ教育法と演奏美学』、中島弘二、米谷治郎訳(音楽之友社、2005年)、232~232頁。
  • F. Chopin, Esquisses pour une méthode de piano, textes réunis et présentés par Jean-Jacques EIGELDINGER, Flammarion, 1993, p. 40.
  • J-J. EIGELDINGER, ibid, 2006, p. 133-134.
  • « cette pratique barbare ». J-J. EIGELDINGER, ibid, 2006, p. 134.
  • 画像はすべてフランス国立図書館のデジタル図書館Gallicaより転載。
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