ピティナ調査・研究

時代・社会の鏡として作曲家を見る楽しみ

音楽へのとびら~ピティナ・ピアノ曲事典 Facebook アーカイヴス
時代・社会の鏡として作曲家を見る楽しみ

掲載日:2012年10月22日
執筆者:上田泰史

目上の人との付き合いというのはなかなか難しいものです。わけても野心に満ちた若者にとって、先輩たちが作り上げた既製の現実世界は、自分を受け入れてくれる社会的な受け皿であると同時に、往々にして自己実現への障壁に見えることもあります。生きてきた時代が違えば考え方も違うのは当然です。しかし、その人が生きてきた背景を知れば、その人の考え方を理解することができ、打開策が見つかるかもしれません。過去を生きた私たちの大先輩たちもまた、それぞれに時代や社会的背景を背負っています。そこに、今日は少し目を向けてみましょう。

「個性的」・「独創的」という言葉がもたらす問題

「個性的」・「独創的」といった言葉は、その内部に他との比較を孕んでいます。ある作品や作曲法が何に対して独創的なのかを定める美的基準がそれぞれの時代や社会には存在し、これを参照しながら個と個の差異を認め、他との差異が大きければ大きいほど、その個人や個々の作品は「個性的」・「独創的」という資格を与えられます。少し前は芸術に限らず教育一般において「豊かな個性を育む」とか「オンリーワン」という標語をよく目にしました。しかし、個性とは個を大多数の他者と差異化することによって成立する以上、みんなが個性的になって欲しいという理念は自己矛盾です。

もともと音楽家は敢えて独創性を主張する必要はなかった

音楽家は元来、社会的には独創的な個人ではなく王侯貴族の僕と位置づけられ、多かれ少なかれ自身の仕える主人の要請に応じて手際よく楽曲を提供することをもって職能としていました。教会においても状況は本質的には同じで、神の僕として日々の聖務に必要な楽曲を書いたり、演奏したりすることが彼らの存在理由でした。

「自律的音楽家」という理念の形成

芸術家が王侯貴族の権威から独立し、一つの尊重されるべき人格であるという考え方は、18世紀後期から19世紀初期のフランス革命期に形成され、以後、近代的な芸術家像として受容されるようになりました。ご存知の通り、1770年に生まれたベートーヴェンは革命期の代表的な音楽家です。ベートーヴェンに代表される音楽家たちは民衆を圧政から救済し自由へと導く英雄ナポレオン・ボナパルトのイメージを自らに重ね、創作の筆を執りました。ベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》に見られる「苦境からの開放」という物語のステレオタイプは、当時大変流行した「救出オペラ」と呼ばれるジャンルの特徴です。「苦境にある英雄を『救出する』」というこの流行のジャンルは、「登場人物たちが自分たちの手で困難を克服して幸せな結末を勝ち取る」*という、この時代の社会を覆っていた革命的精神を反映しています。
言葉のない器楽においてさえ、交響曲第三番《英雄》に代表されるように、ソナタ形式の再現部やフィナーレにおいて事が成就するという、物語的な展開が好まれるようになります。作曲を通して新しい市民社会の理想を体現することによって、芸術家は自ら革命に共振する自立した一市民として、また音楽を通して個人的思想を表明する自律的な音楽家として振舞うようになりました。ここに、冒頭にお話した「独創性」や「個性」という価値観が付随してくることになります。

芸術家の経済的自立

政治革命に引き続き、産業革命もヨーロッパを席巻します。資本を元に工場で人を雇い製品を生産・販売することで大きな利益を得る裕福な市民の台頭です。音楽家の中にはクレメンティやその門弟カルクブレンナーのように、ピアノ会社の経営に参画する者も現れます。自律的な芸術家としてのアイデンティティー形成とそれを認める新しい市民社会、王侯貴族の後ろ盾なしに自ら築いた富で獲得した社会的ステイタス。この二つの要因によって、音楽と音楽家はそれ自体、権威を獲得していきました。
先日の記事で取り扱った「手導器」の開発者でピアニスト・コンポーザーのフレデリック・カルクブレンナー(1785~1849)は、この時代のプロセスを反映する代表的な音楽家です。学識と才能豊かなピアニスト兼作曲家であるばかりか、ピアノ会社プレイエルの経営に携わり、楽譜を次々に出版し、演奏器具を発明し、高額のレッスン料を取り、演奏会を企画し、さらに王族とは対等な資格で付き合う。その結果、当時のピアノ界における彼の権威は否応なしに高まっていきました。

時代の体現者として見たとき、カルクブレンナーが面白い

ショパンが31年にパリに到着した時、カルクブレンナーは25歳も年上の大先輩でしたから、彼の演奏や考え方を気に入ろうと気に入るまいとショパンはとにかくカルクブレンナーとは良好な関係を保つことが重要でした。当初はカルクブレンナーに熱狂していたショパンではありましたが、次第に彼の人格、メソッド、音楽観との乖離を意識するようになり、入門の誘いも断って独立自尊の道を歩む決意をします。1833年にホ短調の《協奏曲》作品11を出版した時、ショパンはこれをカルクブレンナーに献呈しましたが、それはピアノ界の第一人者の「ご機嫌とり」だったと後に述べています**。いかにもショパンらしいシニカルな発言ですが、仮にそれが本当だとすれば、それほどにカルクブレンナーの権威が大きかったということを、この証言は示しています。

若い世代に戯画化されたカルクブレンナー

カルクブレンナーは、ショパンだけでなく、ヘラーやマルモンテルといった若い世代の音楽家によって、しばしばうぬぼれの強い傲慢な音楽家として描かれて言います。これらの証言は、現在に伝えられ、カルクブレンナーに対する否定的なイメージを生み出していますが、重要なのは彼をショパンやヘラーに比べて「劣った」人物であるという不毛な結論を導くことではなく、彼に関する証言を客観的に分析することで、19世紀前半の社会的風潮がいかにして彼のような存在を生み出したのかを考えることです。カルクブレンナーを通して当時の音楽や社会に関する認識を知ることは、当然、ショパンのような新しい世代の音楽家の歴史的・社会的位置づけを考え直す上で役に立つはずです。
ということで、次回以降、過去のアーカイブ整理を兼ねて、カルクブレンナーに関する証言をまとめ、彼が具体的にどのように「自律的な芸術家」として振舞ったかを見ていきたいと思います。

フレデリック・カルクブレンナー(再掲)。貴族の出自を持たないが、貴族や王族と交際し、対等に振舞ったが、その様子は時に周囲の顰蹙を買った。

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