「ソナチネ」だけじゃない、クレメンティ

掲載日:2012年10月7日
執筆者:上田泰史

クレメンティの「ソナチネ」と言えばピアノを学ぶ誰もが通る道。愛らしい小ソナタはベートーヴェンに入る前の生徒さんが「ソナタ形式」のステレオタイプを学ぶ上でもよく引き合いに出されます。でも、実はこのクレメンティ、大規模なソナタや交響曲も書いた立派な作曲家だったことをご存知でしたか?
先日の問題を出した意図は、この作品を聴かれた方に、「ソナチネ」でしか知られていない教育者クレメンティの別の顔、すなわち「作曲家クレメンティ」をご紹介しようと思ったからです。クレメンティは1752年生まれで、1832年まで生きた作曲家です。この当時としては80歳というのはかなりの長寿です。同じ時代に生まれた作曲家では1756年生まれのモーツァルトが同世代です。ベートーヴェンは18歳下で1770年の生まれです。クレメンティはベートーヴェンのように交響曲作曲家として名を成すべく奮闘し、少なくとも4つの交響曲を書いていますが、18世紀末にはハイドンの、19世紀初めにはベートーヴェンの交響曲人気によって管弦楽のコンサート・シーンからは姿を消してしまいます。現在では彼の交響曲も再評価が進み、録音もされています。
クレメンティはローマに生まれましたが、13、4の時に英国に渡り、人生の大部分の時間をこの地で過ごします。イギリスでクレメンティは演奏家、教育者、作曲家、ピアノ製作者、指揮者、楽譜出版者というマルチ・タレントな音楽家として活躍しました。
1821年に出版されたこのソナタは、出版年代から見れば「後期ソナタ」に属しますが、彼の手紙の証言から、作曲は1804-5年には作曲されていたと見られています。この楽章にはカノンという、一つの声部を別の声部が模倣しながら追いかける技法が見られます。カノンはもともと対位法という作曲技法の厳格な原理に基づくもので、ルネサンス期以降、教会音楽で高度に発達した書法です。クレメンティに関しては宗教声楽曲を殆ど書いておらず、若書きのオラトリオが一作知られているにすぎません。しかし、彼は1800年頃から対位法に関心を寄せ始め、1802年に作曲した《3つのピアノ・ソナタ》作品40の第一番では第3楽章がそっくり二声の厳格なカノンで書かれています。彼のソナタ中、唯一、4楽章で構成されたこの大規模なソナタ作品40で、新しい世紀を迎え自らの新たな指針を定める作品となりました。
作品40、50に続くクレメンティのピアノ史上における輝かしい功績として、彼の《パルナッソス山への階梯、あるいはピアノ演奏の技法》を忘れてはなりません。1817年、19年、26年に3回に分けて出版されたこれら100曲の作品群は、単に指の練習をするための練習帳ではなく、様々な時代の様式、書法へと生徒を誘い、親しませる鍵盤楽器演奏技法の総決算とも言うべき曲集です。曲集には練習曲、前奏曲、舞曲、フーガ、カノンが含まれ、それらは時に組曲として提示されます。この豊かな着想と学識の世界に対し、後世のピアニスト兼作曲家たちは多大な敬意を払いました。ショパン(1810-1849)、アルカン(1813-1888)、ヒラー(1811-1885)といった過去の音楽遺産を重んじるピアニスト兼作曲家は《パルナッソス山への階梯》を薦めていました。
ところで、クレメンティの《階梯》が先人ヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)の対位法の教科書《パルナッソス山への階梯》と同じであるのは、対位法に入れ込んでいた19世紀のクレメンティのことを考えれば偶然ではないでしょう。
モーツァルトの伝記でクレメンティの名を知る人は、モーツァルトがクレメンティの演奏を聴いて「右手と三度のパッセージを別にすれば単なる機械に過ぎない」という痛烈な批判が印象に残っているかもしれません。これまでに、このパッセージが繰り返し強調されてきたために、クレメンティは随分株を落としている観があります。このエピソードは1781年12月24日、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世の御前演奏で二人が演奏した時の印象に基づいて書かれていますが、モーツァルトは何が気に入らなかったのか「彼は他のイタリア人と同様、ペテン師だ」とさえ言い放っています。
しかしモーツァルトの方もやはりクレメンティから得たものはあったようです。というのも、このときクレメンティが演奏した言っている《2つのソナタ》作品24第2番の冒頭主題は後のモーツァルトのオペラ《魔笛》序曲の主題と酷似しているのですから。このソナタは1780年代末に出版され、その後第2番は1804年に作品41として出版されました。 モーツァルトの「魔笛」人気に逆にあやかろうとしたのか、或いは自分の主題をモーツァルトが借用したことを人々に知らせようとしたのか、腹の内は良く分かりません。