カミーユ・スタマティ マルチェッロの詩編 第18番に《天は神の栄光に語り》のパラフレーズ

掲載日:2012年5月29日
執筆者:上田泰史
今日、職業演奏家はいつでも暗譜で弾ける曲を多かれ少なかれ準備しています。そのような曲の全体を「レパートリー」と言いますが、このような考え方が出来たのはそれほど昔のことではありません。19世紀、歌手たちはいつでも仕事を受けられるように数十曲のオペラの役を覚えていました。あまり上演されない役に労力を割くより、頻繁に上演される作品の方が、歌手にとっても、興行主にとっても都合がよいわけです。同じ時代、オーケストラやピアノなどの器楽についてもレパートリーの定着が急速に進みます。変わり映えのしないレパートリーで有名だったのはパリ音楽院演奏協会という、パリ音楽院の附属オーケストラでした。この団体は1828年に創立されて以来、前年に亡くなったばかりのベートーヴェンの交響曲を100年以上もの間、主要な演目に据え続けました。音楽院のような教育機関ではベートーヴェンを中心とするドイツ・オーストリアのレパートリーが作曲の規範・理想と見做されていたからです。もちろん、同時代人の作品も多く演奏されましたが、繰り返し、何度も演奏されると言うことはありませんでした。グルック、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、メンデルスゾーンの作品を固持し続ける保守主義は、現代的な固定されたレパートリー観を形成する一つの基礎となっています。
しかし、ピアノ音楽に関しては、19世紀前半、レパートリー定着の度合いはずっと緩やかなものでした。なぜなら、ピアニストたちは自ら作曲し、演奏するのが普通だったからです。フィールドやフンメル、ベートーヴェンのソナタや協奏曲はパリ音楽院の試験で度々演奏される教育的なレパートリーでしたが、音楽院の外では個々のピアニスト兼作曲家たちの自作自演や、先生の書いた作品を弟子が演奏すると言うケースが非常に多く見受けられます。
一方で早くからベートーヴェンを始めとする18世紀以前の古典的レパートリーに関心を寄せるピアニスト兼作曲家も現れました。アメデ・メロー(1802~1874)、フランツ・リスト(1811~1886)、カミーユ・スタマティ(1811~1870)、フェルディナント・ヒラー(1811~1885)、シャルル=ヴァランタン・アルカン(1813~1888)、ステファン・ヘラー(1813~1888)といった面々がその代表です。彼らは自作品を演奏する傍ら、レッスンや演奏会を通して「過去の大家」の作品を世に知らしめようと務めました。
古典音楽への関心はやがて、19世紀後半になると古典音楽曲集の出版を通して広く普及し、音楽院だけでなく家庭でも教えられるようになります。特に、この時代は産業と都市化が急速に進み、お金に余裕のある市民の絶対数が急増します。水泳や乗馬、鉄道旅行などのレジャーが一般市民のなかで流行するようになったのも丁度この時期です。19世紀の後半だけでも、パリでは5回の万国博覧会が行われ、工業製品から絵画、音楽までが「展示」されました。
ブルジョアの価値観の中では、ピアノを嗜みとして学ぶべきだと考えられたのは女性でした。女性は当時作曲家を職業とすることが難しかったので、必然的にレパートリーは多く出版されるようになった「まじめな」古典音楽へと傾斜していきます。同時代の演奏会曲目を研究した音楽社会学者のウィリアム・ウェーバーは1870年頃をもって、規範的なレパートリーが都市部を中心に支配的な影響力を持つようになったと考えています。
本日の一曲は、カミーユ・スタマティが1856年に出版した曲集《音楽院の想い出》という編曲シリーズからの抜粋です。原曲はイタリアの作曲家ベネデット・マルチェッロ(1686~1739)の伴奏付声楽曲の編曲ですが、同時代のピアノ技法を統合しながら厳しくも華々しい効果が生み出されます。この曲はパリ音楽院演奏協会オーケストラが演奏していたもので、アルカンも1847年にいっそう厳格なトランスクリプションを書いています。