ピティナ調査・研究

フレデリック・カルクブレンナー

音楽へのとびら~ピティナ・ピアノ曲事典 Facebook アーカイヴス
フレデリック・カルクブレンナー

掲載日:2012年5月9日
執筆者:上田泰史

音楽出版社アルテスパブリッシングからこの春に「ジャンル無用の音楽言論誌」と銘打った出版社機関紙『アルテス』が発行されました。その第二号に収められた東京芸術大学作曲家教授、小鍛冶邦隆先生の新連載「Carte blanche」の一部がFBで紹介されておりました。音楽教育に関わる話でしたので、「ピアノ曲事典」と「今日の一曲」に関連づけながらご紹介したいと思います。原文はこちらのリンクを辿ってください。

大学教授というアカデミックな立場から音楽界をみると、大学の内と外では随分音楽と教育の在り方、目指すところが異なるようです。小鍛冶教授は、まず、対照的な二つの音楽教育の在り方を現代に認めています。一つは、これまで西洋の伝統が培ってきた教育の在り方です。引用:「『音楽=伝統』というような曖昧な概念はあくまでも、道徳的ともいえる厳格な訓育(音楽的訓練)をへて実現するものであり、そのなかでいかに合理的な教育法がもとめられたとしても、それは最終目的としての芸術の享受に向けてなされるべき必然的プロセスであるという合意(含意)があったはずだ。」ちょっと難しいですが、音楽の教育とは厳格な技術的・知的な音楽修練を通して、始めて到達できる芸術への理解を獲得すべきだ、ということです。以前のコラムで書きましたが、チェルニーやクレメンティは教育者であると同時には一流の作曲家でもありました。チェルニーはリストのように才能ある生徒にはレッスンで18世紀以前のソナタやフーガなど厳格な音楽を大量に与えたと言いますし、ステファン・ヘラーという優れたピアニスト兼作曲家に対しては数か月でベートーヴェンのソナタを二作品のみ指導したという話もあります。作曲の傍ら一日12時間のレッスンをしたと言う超勤勉なチェルニーはもちろん、教師の鏡でもありました。(今日、チェルニーがメカニックの訓練の代名詞になっているのは余りに皮肉です。)このように、いわば優れた職人に弟子入りするように、演奏ばかりでなく作曲、解釈、道徳観も含めて師匠の教えに従い、演奏、作曲、初見の技法、歴史的知識等を幅広い音楽的教養(「音楽知」といってもいいでしょう)を身につけ、これをまた代々受け継いでいくというのが、西洋の伝統的な教育の典型的ビジョンと言えます。

さて、これに対置されるのは現代日本の教育の様相です。現代の大量消費社会においては、師匠が自らの修練を通して獲得し、弟子たちに音楽的教養を培わせるというプロセスが殆ど成立しなくなっています。「いやいや、今でも先生と弟子の関係はあるでしょう」と言いたくなりますが、実はその質は大きく変わっています。メソッドはそれぞれの「師匠」によって編みだされるものではなくなり、既存の教則本なり演奏の手引きが定番化し、商品として流通し、広く用いられています。無論これは日本に始まったことではなく、とりわけ音楽の大衆化が進んだ19世紀後半の西洋で顕著になりました。つまり、パッケージ化され商品化された教え方、解釈の仕方、楽曲分析法、歴史の見方はマニュアルであって、自らが修練を通して獲得した音楽的教養ではないわけです。この論理でいくと、19世紀以前の「音楽知」の伝承はマニュアル化が進んだ現代には起こり得ないので、マニュアルを借りて伝承「ごっこ」をしていることになります。次の文章はそのことを言おうとしています。引用:「しかしながら今日では、ある全国的なピアノ教育団体に典型的にみられるように、教育の過程そのものが価値づけられ、学習者の興味によって交換可能な教育ソフトとして商品化される。幼い学習者たちとその指導者は、消費者主体として参加する、さまざまな『音楽作品=課題曲』や『演奏法=指導法』というゲーム的回路のなかで、「ピアニストになる」という仮想の物語のそれぞれの役割を演じることになる。音楽は『教育』という一点においてこそ、商品となるのである。」その結果、「大半の音楽学習者が職業音楽家としての道を歩め」ないという事態が生じて「誰でも参加できるというだけの理由で『民主的』とされ、音楽に必然的にともなう職業的困難やリスクを度外視して、その教育内容と手法のみを選択させるという自由契約にもとづく専門教育の閉鎖的な回路のなかでの、はてしない消尽が続いている」という現状がもたらされてます。

あれ、「ある全国的なピアノ教育団体」ってもしかして・・・この観察は歯に衣着せない痛烈な批判として私たちの耳に届くでしょう。「音楽知」の伝承がなければ本来の「芸術享受」もないじゃないか、というわけです。そこで、小鍛冶教授は、大学人として過去に集積された「音楽知」を再構築し、読解する場を音楽大学に設置する重要性を指摘されています。

さて、ここで現在進行中の『ピアノ曲事典』なのですが、私にはまだこの事典が、個々の作品や作曲家に関する知識をパッケージ化して提供する「便利なホームページ」に留まるのか、「音楽知の再構築に役立つアーカイブ」にまで発展するのかは分かりません。後者を目指すには、大学人の力を借りなければなりませんし、かなりの予算も必要です。現段階では、アクセス数はショパンを筆頭に、コンクールやレッスンに関わる有名作曲家に集中しているという報告は耳にしています。しかし、登録されている作曲家は解説未整備の物も含め数百はありますし、これからもどんどん増えていくでしょう。「Encyclopedia(百科事典)」である以上、現在誰も演奏しないような作品や作曲家の項目についても等しく解説があり、音源が整備されていくべきです。つまり、『ピアノ曲事典』プロジェクトは「教育消費サイクル」外にある情報を大量に扱っていかなくてはならないのです。この点、『ピアノ曲事典』はPTNAの活動全体の中で極めて異色のプロジェクトだと言うことができます。やがて「音楽知の再構築に役立つアーカイブ」にも成りうるこのプロジェクトと「教育消費サイクル」の間には、現状では大きな隔たりがありますが、この隔たりを縮めていくことが出来るのは、この両方を組織に内包するPTNAであるともいえます。この点に、私は『ピアノ曲事典』の将来性を見ています。

さて、今日の一曲はカルクブレンナー(1785-1849)の《手導器でピアノを学ぶためのメソッド》作品108に収められた練習曲第6番「トッカータ」です。彼はこれまでに紹介したフィールドやクラーマーと同じクレメンテイの弟子で、ショパンはパリ到着時、その演奏の魅力にすっかり取りつかれました。ショパンの協奏曲第一番はカルクブレンナーに献呈されています。カルクブレンナーはビジネスマンでもあって、1831年、手導器という「先生いらず」の器具と一緒にこのメソッドを売り出しました。まさに彼は「教育消費サイクル」を作ろうとした最初期の人であるわけですが、一方で過去の音楽について極めて造詣の深い作曲家でもあり、彼の門下からはサン=サーンスの師カミーユ・スタマティを始め優れたピアニスト兼作曲家が輩出されました。今日では「教育消費システム」の推進者としてばかりその名が語られ、反芸術的とまで言いたげな偏向的な文章を目にしますが、彼のメソッドに刻印された伝統的な「音楽的教養人」としての姿は是非とも知っておくべきですし、評価されるべきです。

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