ピティナ調査・研究

A.-F. マルモンテル《3つの性格的小品》より第一番〈哀歌〉

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A.-F. マルモンテル《3つの性格的小品》より第一番〈哀歌〉

掲載日:2012年5月22日
執筆者:上田泰史

「クラシック」という言葉は、今日ではジャズ、ポップス、演歌等と並んで音楽の一ジャンルを指す名称として一般に認識されています。しかし、「クラシック」という言葉はもともとジャンルの名前ではありませんでした。この言葉は、「クラスで教えるもの」、すなわち「手本・規範となる」ものを指します。手本になるということは、過去に倣うということでもあります。「クラシック」の日本語には「古典」という言葉があてられています。「古」いは「過去の」という意味ですし、「典」は「尊ぶべき書物」(『新漢語林』)が第一義ですから、「古典」という言葉は原語の本質をよく表した訳語だと思います。

概して、西洋音楽において「クラシック」は、作曲の規範になる作品のことを指しました。この用語がいつ頃から音楽的な文脈の中で用いられるようになったのかは詳しく知りませんが、少なくとも1830年ころのパリでは、A.-E. ショロン(1771~1834)という博識な作曲家・理論家が、自ら設立した宗教音楽学校に『王立古典音楽音楽院』という名称を与えています。ここでは、フランス革命期に荒廃した宗教音楽の教育が目的とされていました。

ピアノ教育においては、パリ音楽院で「クラシック」な作品が定められていきました。1822年にパリ音楽院の院長に就任したルイジ・ケルビーニ(1860~1842)は修了試験の課題曲を物故者の、つまりもう死んだ作曲家の作品に限定し、そのうえ作曲の規範的なジャンルに含まれるフーガとピアノ協奏曲を演奏すること、という通達を出しています。

現在私たちが「クラシック」=「古典」として触れている作品の中核には、19世紀市民社会の成立の中で確立され、近代的な教育の中ではじめて権威を持つようになった作品があるのです。端的にいえば、それはバッハ、ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトといったドイツ・オーストリアのいわゆる「大作曲家」たちです。しかし、少し考えてみれば分かりますが、ハイドンにしてもモーツァルトにしても、彼らは生前、「僕はクラシックな作曲家だ」などと思って作曲していたわけではありません。特にフランス革命以前、王侯貴族につかえていた音楽家たちは、君主への忠誠の証として日々創作に明け暮れていたはずです。このことを考えれば、18世紀後半の音楽に与えられた「古典派」という名称が、後世の人々の教育上の都合によって創りだされた言葉であるということが分かります。

日本は明治以降、西洋音楽を文明化のシンボルとして受容してきました。その後、有難い「古典」としての西洋音楽のイメージが初期の教育や音楽批評を通して広く聴衆に浸透していきました。ハイドンの交響曲第94番は「驚愕」という愛称で知られていますが、宮廷における社交上のユーモアに長けたハイドンは、第二楽章で突然の大音量で聴衆をびっくりさせます。日本では「驚愕」という訳がすっかり定着していますから仕方ありませんが、「聴いていて突然びっくりする」という効果に対して「驚愕」という言葉はちょっと大げさで真面目すぎないか、とも思います。「びっくり交響曲」とか「どっきり交響曲」のような訳の方が親しみやすいといえばそうでしょう。こうした漢語への翻訳の仕方にも真面目で高尚な音楽としての「クラシック」のイメージが生き続けています。

音楽大学などであまり真面目に勉強しすぎて、何でもかんでも「古典」という色眼鏡を通して見てしまうと、見失ってしまう音楽も少なくありません。「古典」をしっかり勉強しながら、同時にまだ価値の定まっていない音楽作品に対して、耳目を開いておくこと、そして、新たな「古典」を、責任をもって未来に残していくこと。こうした学びの機会を提供することが『ピアノ曲事典』の重要なミッションの一つです。

今日の一曲はA.-F. マルモンテル《3つの性格的小品》より第一番〈哀歌〉です。マルモンテルは19世紀後半のパリ音楽院で1848年にパリ音楽院ピアノ科教授に就任後、約40年間に亘りビゼーやドビュッシーのピアノを指導しました。演奏者の金澤攝さんはマルモンテルについて次のように語っています。「マルモンテルは通常の作曲家とは異なり、マルモンテル作品の本質は、作曲技法そのものではなく、作品を演奏するという行為そのものの喜びを引き出す点にあります。演奏という身体的経験を含めた「作品」という視点に立てば、そこにマルモンテル独自のピアニズムのあり方が見えてきます。」

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