A.-F. マルモンテル 《ヴェネツィア:バルカロール》

掲載日:2012年5月23日
執筆者:上田泰史
日本ではこの季節になると「五月病」などと言いますが、5月のパリは試験期間で勉強や練習に明け暮れる学生でもない限り、一年で最も過ごしやすい快適な季節だと言われています。暖かい日差しで木々の緑はいよいよ鮮やかになり、川面に反射する光は爽やかな風に揺られてきらきらと踊り始めます。川辺に腰掛けてのんびりと往来する船を見ていると、時間はいつもよりその歩調を落としてゆっくりと過ぎて行くような気がします。
「バルカロールBarcarolle」(仏)とは「舟歌」という日本語があてられる音楽ジャンルの名前です。「バルカローラ」(伊)は「水の都」として知られるヴェネツィア特有の言い方で、「ゴンドラ漕ぎの歌」ほどの意味です。ご存じの通り、干潟の上に形成された古都ヴェネツィアには運河が網の目状に通っており、ほっそりとした小舟は古くからこの街の重要な交通・物資運搬手段でした。現在では水上バスや水上タクシーが走るようになりましたが、手漕ぎのゴンドラは今でも重要な観光資源として保存されています。
バルカロールは小舟を指す「バルカbarca」というイタリア語に由来します。英語で乗船することを「embarkment」と言いますがこれは「小舟bark+en~の中へ」というのが本来の意味です。このバルカロールというジャンルは19世紀、フランス、ドイツにおいてロマンチックな憧れの地ヴェネツィアを喚起する一つのトポスでした。個人的な瞑想や物思いにふける人物のイメージが流行したこの当時、ヴェネツィアという理想と結びついたバルカロールは作曲家たちにとって格好の題材でした。
ピアノ音楽でバルカロールのステレオタイプを定めたのは恐らくメンデルスゾーンの《無言歌集》に含まれる三曲―作品19の第6番(ト短調)、30の第6番(嬰へ短調)、62の第5番(イ短調)―です。いずれも、8分の6拍子、中庸なテンポでメランコリックな旋律を奏でるというのが特徴です。19世紀には特に8分の6拍子、ト短調のバルカロールが非常に多く書かれています。ショパンにもバルカロールの傑作がありますが、これは嬰ヘ長調です。どの作曲家も「ソ」の音あたりを中心とした調で書いていますが、この音は水辺を連想させるのでしょうか。
本日の一曲は《ヴェネツィア:バルカロール》と題されたA.-F.マルモンテル(1816-1898)の舟歌です。昨日も紹介しましたが、マルモンテルは19世紀の後半、パリ音楽院の教授としてドビュッシーを含む多くの優れた生徒を指導しました。この曲は8分の6拍子、ト短調というこの時代の最も典型的なバルカロールと言ってよいでしょう。A―B―Aという明快な形式ですが、船をこぐような淡々とした描写的リズムのAに対して、中間のBは暗いパッションに満ちた劇的な様相を呈しています。