音楽と「様式」2

掲載日:2012年11月6日
執筆者:上田泰史
11月に入ってもう一週間が立ちました。パリの街はすっかり秋色に染まり、真っ赤な蔦の葉がレンガの壁面を美しく飾っています。日本でもいよいよ紅葉シーズンの到来ですね。私はちょうど今月は日本音楽学会の全国大会に参加するために帰国して京都を訪れる予定ですので、研究発表のついでに紅葉狩りも楽しんで来ようと内心わくわくしています。
ところで、私たちは景色など自然物に対して「様式」という言葉を用いません。たとえば、富士山と似た形の山は国内ばかりでなく世界中にありますが、それらの山を「富士山様式の山」と呼ぶとおかしな感じがします。それは、「様式」という言葉が普通、人間の手で作られたものにしか用いられないからです。西洋の考え方では、自然は所与の、つまり神の創造によって与えられた世界であり、これを秩序付けるのが人間であるという見方をします。そういえば、先日、フランスのテレビで芝刈り機のCMを目にしました。そのキャッチコピーは「自然をコントロールしましょうMaîtrisez la nature」というものでした。自然の創造は神の領分、それを支配し秩序を与えるのが人間の領分だ、という伝統的な考えがこうした言い回しの背景にはあるような気がします。

よく使われるフランス語の格言で、「文は人なり Style est l'homme même」という表現があります。これは18世紀の博物学者ビュフォン(1707~1788)の言葉ですが、文章作法に話題が及ぶとよく引き合いに出されます。この「文は人なり」の「文」は「スタイルstyle」(英)なので、一般には「様式」という訳でも良さそうですが、ここでは「文章を書く手法manière d'écrire」という意味が問題となるので「スティルstyle」(仏)が「文」と訳されています。この格言の意味は、観察し、記述する内容たる自然は所与のもの、これを整理し秩序立てて記述するのが人間の領分だ、ということです。

ところが、現在ではこの格言は必ずしも本来の意味で用いられているとは限りません。このフレーズだけが一人歩きして、いつしか「文体とは書き手の個性を表す」と「誤解」されるようになっています。こうした「誤解」は19世紀初期に「個人様式」という発想が生まれるのと同時に現れます。
1839年にフランス語に翻訳されたイタリアの著述家リヒテンタールの『音楽辞典』は「個人様式」を次のように説明しています。
ここでは「文は人なり」(ここでの「文」は作曲手法・演奏手法のこと)が、「所与の自然に対する人間の領分」という普遍的な視点からではく、個々の藝術家の作曲手法・演奏手法の差異という個別的な視点から解釈されています。
ところで、博物学者ビュフォンにとっての記述対象、つまり「文style」の内容となるのは所与の自然物や自然現象でした。では、音楽家にとって「文style」の内容、つまり秩序づけるべき対象となるのは一体、何だったのでしょうか。次回は、もうすこし踏み込んで音楽と様式の問題を扱ってみたいと思います。
- イタリア盛期ルネサンスの代表的な画家。
- 16世紀から18世紀に活躍した著名な作曲家の名。
- 17世紀~19世紀に活躍した著名なヴァイオリニスト兼作曲家。
- P. Lichtenthal, Dictionnaire de musique, traduit et augmenté par Dominique Mindo, vol. 2, Bureau de la France Musicale, Paris, 1839, p. 302.