貴族気取りの音楽家 1─ステファン・ヘラーから見たカルクブレンナー

掲載日:2012年10月25日
執筆者:上田泰史
パリで一世を風靡した19世紀前半のピアニスト兼作曲家、ピアノ教師フレデリック・カルクブレンナー(1785~1849)は、前回見たように古典の尊重という点ではショパンと一致していましたが、ピアノ演奏に対するアプローチが大きく異なっていたために、両者の間には大きな溝が生じることとなりました。この溝は、さらに作曲に対する態度の違いにも見て取ることができます。
カルクブレンナーは多作な作曲家で、約200曲の作品を出版しています。とりわけ30年代以前の作品には、彼の和声、対位法に対する高い見識と技量を示す厳格な内容の作品が創作の中心を占めています。ドイツの大家フンメルに献呈した《幻想曲とフーガ》作品8、シンフォニックな着想に基づく《ピアノ・ソナタ》ト短調 作品13(1813)、「ハイドンの思い出に」捧げられた※1《大ソナタ》ヘ短調作品56(1821)を含む13曲のソナタ、4つのピアノ協奏曲、それに数々の練習曲(特に作品108と143)。さらに室内楽の分野でも充実した成果を上げています。2曲の管・弦楽器とピアノの七重奏(1814, 1835)、ピアノと弦楽のための2つの六重奏(1821, 1838)に加え、ピアノ四重奏、5つの三重奏曲(内一曲は41年出版)、それにヴァイオリンとピアノのための二重奏があります。このあたりの録音はまだPTNAで行っていないので、是非今後企画していきたいと思います。
30年代から40年代にかけて、作品の趣味は少しずつ厳格なものからより優美で華麗な新しいスタイルへと変化させていきます。この背景には1830年に成立したオルレアン家のルイ・フィリップを君主とするフランス七月王政下の経済発展があります。自由主義の導入し資本家を優遇する措置をとることで、この時期フランスの産業は急速に発展、ピアノの生産も躍進を遂げ市民の家庭にピアノが普及します。広がりつつあった一般愛好家の需要に答えて、カルクブレンナーは厳格な作品よりも人気オペラに基づく技巧的な幻想曲やロマンスと呼ばれる歌唱的旋律的のジャンルへと創作方針を転換し、同時に愛好家向けのごく平易な作品も世に出すようになります。
音源1:カルクブレンナー : 様式と完成の25の大練習曲より、第11番。1830年代以降、スコラ的な厳格さから、新しい歌唱的ピアノ様式をはじめとする「現代的」様式へと移行する。
またさらに軽い調子の《若い娘たちのおしゃべり》作品128はパリでショパンへの献辞を冠して1845年に出版された小曲です。音楽への取り組みに関して「僕はカルクブレンナーの複製には決してなるまいと十分に確信しておりますから、何者も私から新しい世界を創造したいという大胆すぎるかもしれませんが高邁な理想と願望を奪うことはできないでしょう」(注2)と師エルスネルに書送った若きショパンからすれば、新たに台頭してきた中産階級の愛好家に迎合して「軽い」作品を書く事は、創作理念上折り合いにくいことだったはずです。
両者の相違は音楽家としてどのように社会として向かうかというスタンスの違いであって、愛好家向けの軽い作品をいくらか書いたことでカルクブレンナーの30年代から40年代にかけての創作全体が低く見積もられるということにはならないでしょう。公平な視点に立つなら、《様式と完成の25の大練習曲》作品146などの主要作品を始め、個々の作品と向き合って、彼の創作史のダイナミズムを見定めることが肝要です。
単なる指の物理的な練習は、バッハやモーツァルトのような過去の巨匠の音楽の演奏に役立たないというこの意見は、過去の古典的作曲家の創作物を、彼らの人生や生活環境から切り離し、作品だけを抽出して美的要素を見出し、そこに芸術的権威を認めようとする立場を前提としています。この「真の芸術たる古典の尊重」に対するアンチテーゼとして持ち出されるのは、すでにお分かりの通り、俄かに台頭した中産階級出身の「音楽家兼ビジネスマンの物質主義」です。この対立的な図式から、カルクブレンナーの手導器やメソッド、その使用を前提とした練習曲や種々の作品は、「金儲けのために作られた、取るに足らぬ機械的メソッド」という烙印を押されるリスクが生じます。そして実際に歴史はピアノ文化という広いコンテクストの中でカルクブレンナーのような音楽家の存在意義を検討することをおろそかにしてきたきらいがあります。
さて、ここでカルクブレンナーについて興味深い回想を残したもうひとりの人物を紹介しましょう。彼の名はステファン・ヘラー(1813~1888)。14年生誕説もありますが、ともかくショパンより3歳あまり年下のこの音楽家は、ハンガリー出身でドイツで研鑽を積み1838年パリに到着、以後このパリに定住します。シューマンからその音楽的才能と文才を認められたヘラーはシューマン、ショパン、メンデルスゾーンの後継者を自認し、とりわけ19世紀後半の「シリアスな」作品を書くロマン主義の音楽家として多大な尊敬を集めました。

パリ到着後、彼はショパンと同じようにカルクブレンナーへの弟子入りを検討します。その時の様子を持ち前の文才を生かして小説形式で書き綴ったのが以下に紹介する文章です。これは彼のパトロン、ウジェニー・ド・フロベルヴィル夫人に宛てた回想録の一節で(注3)、夫人の姪を楽しませるために書いたものです。「ブルジョア音楽家の王」カルクブレンナーの傲慢な立ち振る舞いを戯画化し、いかに自分がショパンのように、自らの理想に忠実であったかを際立たせています。
テキストはカルクブレンナーとの初対面に始まり、出版社訪問、入門の契約という3つの場面からなります。今日はそのうちの最初のシーンです。
カルクブレンナー氏はなんとも表現しえぬ笑みを浮かべて私を迎えましたが、私にはそれが悲しき予兆のように思われました。彼が最初に私に尋ねたことはこうでした。
「パリではどのくらいのお金を使えるのかね?」
これを聞いた私は青ざめて答えました。
「カルクブレンナー先生、お金なんてありはしませんよ。ご存じのように、芸術家なんてのは、お金がないものですからね。」
「なんだって、芸術家には金持ちがいないだって!ではこの私はだよ、ひょっとして芸術家ではないとでも いうのかね!私は裕福だ、実に裕福なのだ。私はね、年にだいたい十二万、十三万、いや十四万リーブルだって稼いだこともあったのだよ。もっともそういう時代はもう過ぎてしまったけれどね。ステファン君、私の部屋をちょっと見てみてごらん。ほら、私に遠慮する必要なんてないんだよ。私は確かに有名人だが、だからといって威張ろうっていうんじゃない。」かれは笑みを絶やさず続けました。「ほら、見てごらんなさい、この天井、壁紙、絨毯、ヴェネツィアのガラス、絵画を。あなたの貧しいドイツでこんなアパルトマンを見たことがあるかね、あの国の、富もなければ名声もない哀れな芸術家の家でね。ここの家賃は九千フランもするのだよ。」
それを聞いて私は手と手を合わせて握りこう言いました。
「ああ、カルクブレンナー先生!」
「さあおいで、ちょっとそこらへ出かけよう。あなたに私の「出版者たち」を紹介してあげよう。ああ、パリ中探したって、私の出版者以外に出版者などいないのだよ!そうだ、私はこの冬にすてきな束の間の楽想[パンセ・フュジティーヴ]を作曲して、それをダポニー夫人(注4)のところで昨晩演奏したのだ。みんな涙をこぼして聴いていたよ。というのも、わかるかね、この曲はたぶんこれまで私の書いた中で一番美しいものだろうね。聴いてみるかい?」
「ほんとですか、身に余る光栄です」
「こんな曲は聴いたことがないと思うよ」
そうして彼はお粗末な、ちっぽけな曲を演奏してくれました。それは楽想も形式も古臭く、十回煎じたお茶のように生ぬるくて味気がなかったのです。
彼はある種渇望したような目で私を見つめたので、私はほとんど無意識のうちに感嘆したような大げさでわざとらしい仕草をすることになってしまったのです。
- カルクブレンナーは1803年にウィーンを訪れた際に晩年のハイドンから指導を受けています。
- J-J. EIGELDINGER, Chopin, vu par ses élèves, Paris, Fayard, 2006, p.133.
- テレーズ・ノガローラ、アントワーヌ伯爵夫人。オーストリア駐仏公使の妻で、パリ社交界の中心人物。ショパンは彼女に《ノクターン》 作品27を捧げた。
- テキストは下記の書籍中で出版されました:J.-J. Eigeldinger, Stephen Heller:Lettres d'un musicien romantique à Paris, Flammario, 1981. (ジャン=ジャック・エーゲルディンゲルの著作『ステファン・ヘラー―パリのあるロマン主義音楽家の手紙』、未翻訳)。
- 画像はフランス国立図書館Gallicaより転載。