19世紀前半のイタリアとピアニスト・コンポーザーたち1

掲載日:2012年10月3日
執筆者:上田泰史
17世紀末~18世紀初期にピアノが「発明」されたイタリアでは、ヨーロッパでピアノ文化が花開く19世紀前半、不思議なことにピアニスト兼作曲家の存在が歴史上から消えてしまいます。その原因は産業の発達がイギリスやフランス、ドイツのプロイセン帝国といった発展諸国に遅れをとった点にあるのではないか、ということを昨日はお話しました。
イタリアでは18世紀末までは数々の公国が分立していましたが、二度にわたるナポレオンの侵攻(1797~98, 1899~1800)によって一部がフランス帝国に併合、またフランスの衛星国としてイタリア王国が建国されました。やがてナポレオンが失脚すると新たなヨーロッパの秩序を構築すべくウィーン会議が開かれ、再びイタリアはナポレオン以前の体制へと戻り公国が分立する状態が長らく続きます。
フランスでは1795年にパリ国立音楽院が設置され、作曲、声楽、器楽の分野で早くから国家主導の音楽教育が行われていたのに比べ、統一前のイタリアでは、まだ19世紀初期には体系的な音楽教育システムは確立されていませんでした。1807年、ナポレオン体制下のミラノではパリ国立音楽院を一つのモデルとして音楽院(現在のヴェルディ音楽院)が設置され、同地の音楽文化にとって重要な意味を持つようになりますが、イタリアにおける最初のショパン世代のピアニスト兼作曲家は各地域の個別的な文脈の中で誕生しています。
イタリア人ではありませんが、ドイツ人ピアニスト兼作曲家テオドール・デーラー(1814~1856)はイタリア生まれの最初の著名な音楽家です。彼はまずプロイセンからナポリに移り住んだ父の手ほどきを受けます。続いて彼はナポリの劇場指揮者に赴任したドイツ生まれでイギリスの音楽家ユリウス・ベネディクト(1804~1885)の目に留まり、数年間彼の指導を受けました。ベネディクトはフンメル、ウェーバーの門弟として名高い音楽家で、ピアノ作曲家としてもすぐれた作品を残しています。神童として彼の名はたちまち王室にも届くようになり、ナポリ王の激賞を受けるに至ります。ある時、デーラーはナポリを訪れたルッカ公カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(1799~1883)の目に留まり、親子はルッカ公国に招聘されることになりました。公爵は父を太子の家庭教師とし、息子テオドールには才能を伸ばすために必要な環境を与えました。
ここまでが、若きデーラーのイタリアでの略歴です。その後、1829年に彼はオーストリアで高度な教育を受けるべくフランツ・リストの師チェルニーの門を叩き、他の多くの名手と同様、9年後38年にパリに到着し『パリの著名なピアニスト』(下図)の列に加わることになります。彼は今を時めく名手でチェルニーの高弟ジギスムント・タールベルクと共演したり、実現はしませんでしたがリストとの共演までが企画されるほど人々の注目を集めました。彼のパリでの創作の中では、オペラの主題に基づく大規模な幻想曲の他に、ベルリオーズに献呈された《演奏会用第大練習曲集》作品30が創作熱溢れる30年代の重要作に位置づけられます。
デーラーの事例から分かることは、やはり着実に才能を伸ばすには、しっかりとした教育体系がまだ確立されていなかったイタリアでは難しかったということです。ドイツ語圏で一流のピアノ教育を受けるならウィーンのチェルニーという考えがあったのでしょう。もちろんパリ国立音楽院という選択肢もなくはないですが、フランス国籍を取得しなければ入学が認められない時代ですから、やはりデーラーがチェルニーに師事したのは必然的な成り行きでした。しかし、そんな中でもほどなく生粋のイタリア人ピアニストたちが誕生します。彼らについてはまた来週、お話することにしましょう。
写真は1843年、パリで出版されていた音楽雑誌『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカル』紙上で「著名なピアニストたち」として紹介されたピアニスト兼作曲家たち。デーラーは後列右から二番目。この図はパリで活躍していた外国人ピアニストを紹介するもので、フランスの名手たちについては当然、雑誌読者は知っていますから掲載されておりません。後列右にいるのがタールベルクですが、彼の横にボヘミア出身のアレクサンダー・ドライショク(1818-1868)がいるバージョンもありますが彼が消された理由は不明です。下に写真の人物と出身地を記しますが、いかにパリが国際色豊かな「ピアノ都市」だったかがわかりますね。
後列左より順に、ローゼンハインJ. Rosenhain(マンハイム)、デーラーTh. Döhler(ナポリ), ショパンF. Chopin(ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラ)、 タールベルクS. Thalberg(ジュネーヴ), 前列左より順にヴォルフEd. Wolff(ワルシャワ), ヘンゼルトA. v. Henselt(バイエルン), リストF. Liszt(ライディング)。

今日の一曲は引き続きリストの《巡礼年報 第二年「イタリア」》から第二曲、〈物思いに沈む人 Il pensieroso〉です。タイトルは同名の愛称で呼ばれるミケランジェロの彫刻から取られています。この彫刻はミケランジェロの作品で、フィレンツェのロレンツォ2世・デ・メディチ(1492-1519)の墓の一部を成しています。
