19世紀イタリアとピアノ音楽

掲載日:2012年10月2日
執筆者:上田泰史
昨日はピアノが誕生したイタリアを話題に取り上げました。17世紀末から18世紀初期にかけてようやくピアノという楽器は新しい鍵盤楽器として国際的に認知され始めました。1685年生まれのドイツのバッハ、スペインのD.スカルラッティ、イタリアのジュスティーニはいずれもチェンバロに代わってタッチによる繊細な強弱をつけることができるこの楽器に関わった最初期の世代といえます。しかし、その後一般の音楽史では19世紀後半に至るまでイタリアのピアノ音楽は表舞台に登場しなくなります。
18世紀のピアノ・シーンは、産業革命がおこりピアノ生産が拡大されたイギリス、職人たちによって脈々と受け継がれるピアノ製作の伝統を確立したドイツ、ドイツのピアノ製造者の移住と産業革命の煽りを受けてピアノ製造が急速に発展しつつあったフランスによって占められることになります。
この時期の産業革命はピアノ文化の発展に非常に大きな影響を及ぼしました。いち早く資本主義経済が促進されたイギリスではピアノ製作工場が次々に現れ、ピアノの販売促進に伴って「公開コンサート」という演奏会形式がいち早く定着しました。イタリア出身でイギリスで活躍したムツィオ・クレメンティ(1752~1832)はピアニスト兼作曲家であると同時に楽器製作会社の経営者であったことはよく知られています。産業の発達とそれに伴う中産階級へのピアノの浸透は、新たな音楽の担い手を育み、ピアニスト兼作曲家を生み出す土壌を作りだします。一大消費都市のパリでは裕福な市民を中心にサロン文化が花開き、成功を求めて各国からピアニスト兼作曲家が集まり数々の作品を生み落しました。
ショパン世代、イタリアにピアニスト・コンポーザーはいなかった?
産業の発達=ピアノ文化の発展という視点から見れば、イタリアのように産業の近代化が遅れた国ではあまりピアノ文化は栄えなかった、という帰結が予想されます。確かに、ショパンやリストと同世代、つまり1810年代~20年代にかけて生まれたイタリアのピアノ作曲家は音楽史上に殆ど登場しません。西原稔先生がピティナに寄稿された『ピアノの19世紀』は、ヨーロッパ各国のピアノ文化を比較しながら解説した大変興味深い読み物ですが、ここではドニゼッティ(1797~1848)とロッシーニ(1792~1868)のピアノ作家としての活動が取り上げられたあとは19世紀後半のピアニスト兼作曲家ジョヴァンニ・スガンバーティ(1841~1914)まで世代が飛びます。
しかし、この19世紀前半、つまりショパン世代のイタリア・ピアノ音楽史の空白は、少し妙な感じがします。というのも、イタリアには少なくともピアノの聴衆は育っていました。思い出してみれば、フランツ・リストは1837年から39年にかけて愛人マリー・ダグーと共にイタリア、ウィーンを行き来し、ミラノを中心にイタリア各都市で数多くの演奏会を開きました。彼が最初に「リサイタル」と称してただ一人で舞台に立ったのも37年12月、ミラノにおいてでした。これだけピアノに関心があつまる19世紀のイタリアからピアニスト・コンポーザーが育たないということは、どうも奇妙に感じられるのです。
そこで、一体、この国ではどのようなピアノ音楽家が育った(あるいは育たなかった?)のか、この点を明日は見てみることにしてみましょう。
今日の一曲
今日の一曲はフランツ・リストが30年代末のイタリア滞在を通して触れた文学、絵画に霊感を受けた《巡礼年報 第二年 「イタリア」》より第一曲「婚礼Sposalizio」です。このタイトルはルネサンスの巨匠ラファエロが師ペルジーノの同名の作に基づいて製作した絵画『聖母マリアの結婚』(1504)から霊感を受けたとされますが、天使に告げられてヨゼフと結婚するこの新約聖書のシーンは、古くからキリスト教絵画で描かれてきた題材であります。
