ジョン・フィールド ノクターン 第17番

掲載日:2012年5月2日
執筆者:上田泰史
音楽家の性格や人物像と作品の魅力はどのように関係するのでしょうか。1984年に公開された映画『アマデウス』は日本でも有名になりました。この映画はウィーンの宮廷楽長A. サリエリがモーツァルトを殺したという架空の歴史ミステリーで評判になりました。同時に「音楽の天才」の代名詞モーツァルトを「自制心のない下品な人間」として描き、最後は貧困の内に没し共同墓地に遺体が投げ込まれるというシーンでモーツァルトファンの幻想を打ち砕いたことでも大いに話題になりました。殺人の件は史実ではありませんが、彼の人間としての「だらしなさ」は誇張されているとはいえ手紙から伺い知れる事実であり、共同墓穴に葬られるという「偉人」に相応しからぬ埋葬も事実に基づく描写でした。才能豊かな音楽家の作品に接すると、私たちは勝手に、作曲者はどんなに素敵な人格者だったのだろう、と思いますが、人間とその作品のイメージがかみ合わないと言うことは往々にしてあることです。
さて、今週紹介しているピアノのノクターンの「創始者」ジョン・フィールドについてもこんな目撃証言があります。19世紀の後半、パリ音楽院の教授ヅィメルマンの後を継いでビゼーやドビュッシーのピアノ指導をしたアントワーヌ・フランソワ・マルモンテルの回想です。
「1832年、ジョン・フィールドはパリに戻ってきた。それは彼の成功を最初に目撃した場所だ。私はこの当時16歳だったが、子供じみた空想にまかせてお気に入りの巨匠に与えた人相を思い描いては理想化していた。私はとりわけ、想像の中で空想上のフィールドを創り出していた。その魅力的で詩的な作品、旋律的で洗練された繊細な輪郭、軽快で空気のように重量感がなく、曲がりくねる旋律を貫く光線のように漏れ来る走句を持つ旋律的な作品、こうしたものが私に彼の顔を推測させたのだ。それから最後に、ショパンほどの情熱や薄暗い夢想、心を引き裂くような悲痛さ、病的な側面はないにせよ、私は好んでフィールドの中にショパンの先駆者としての姿を見出していた。
私は[パリ音楽院で]ヅィメルマン門下の生徒だったが、先生はパリに一時滞在する外国の芸術家のことを熱心に私達に教えてくれた。紹介状をもって、私は同門生のプリューダン、A. プティ、F. ショレと一緒にフィールドの住む建物を訪れた。私たちの驚きと幻滅といったらいかばかりのものだったか。なにしろ、煙でいっぱいになったこの著名なピアニストの部屋に足を踏み入れるや、私たちの目に飛び込んできたのは、この巨匠が安楽椅子に腰かけ、とんでもなく大きなパイプを口にくわえ、ビールジョッキにあらゆる地方のワインボトルに囲まれた姿だったのだから!彼の頭は少々大きくて頬の血色がよく、重苦しい顔の輪郭は彼の人相にファルスタッフのずるそうな雰囲気を与えていた。
彼がこんな有様で午前中から酩酊しているにも拘わらず、私このことを証言しなくてはならない。つまり、フィールドは私たちを快く迎え、ヅィメルマン先生の手紙に目を通し、大変愛想よく我々にいくつかの曲を演奏してあげようと言ってくれたのだ。類稀な完成度と驚くべき仕上がりでクラーマーとクレメンティのエチュードが二曲演奏されると、我々はこの偉大なヴィルトゥオーゾの指の敏捷さとタッチの上品な繊細さを認めた。別れ際に、彼は次回の音楽院ホールで行われるコンサートの入場券を何枚か渡してくれた。我々はこの芸術家に大変満足して彼のところから引き揚げたが、この人物にはみじめな印象をいた。」(訳:上田)
引用はここまでにします。彼の甘美なノクターンを聴いてからこの逸話を読むとそのギャップに戸惑ってしまいますね。しかし、アイディアと言うものは止めようにも止められないことがありますし、人によっては際限なく湧きあがってきてしまうと言います。溢れだす才能の泉に人格を溺れさせないことは社会生活を営む上で大切ですが、アルコールやドラッグに走ってしまうアーティストは今でも少なくありません。インスピレーションをコントロールする理性を早くから養い、周囲に迷惑をかけず健康に長生きすることが私は一番だと思います。もっとも、私のような凡夫にはその方法など知る由もありませんが。
本日の一曲は1832年、上の証言を書いたマルモンテルがフィールド宅を訪れた年に出版された《ノクターン》第17番です。もちろん、彼が酔っぱらった状態で曲を書いていたのかは分かりません。