45. 「30番」再考 ~ 第26番―ギター風の伴奏音型と中音域の旋律
「30番」のなかでも、第26番「アレグレット・ヴィヴァーチェ(やや快速に、生き生きと)」は、ト短調のもの憂げなメロディがどことなく心をひきつける小品です。この曲は様式の観点からも、メカニスムの観点からも念入りに書かれているので、聴く耳にも充実感を与えてくれます。
次の譜例は第26番の冒頭です。
メカニスム上の難しさは、第一に右手の連打と分散和音の組み合わせです。スタッカートの軽やかな連打を4-3-2-1の異なる運指ですばやく、かつ均質に打鍵する方法です。ピアノの急速な連打が可能になったのは、楽器制作技術の発達のおかげでした。1822年にパリでピアノ・ハープ製造者のエラールが特許を取得した「ダブル・エスケープメント」システムは、打鍵の直後、すぐに弦を打つハンマーが下り切らないで、一瞬弦の近くに留まってから完全に下りる、つまり「エスケープ」するという2段階でハンマーを下ろす新しい機構でした。チェルニーが「30」番を出版したころにはこのシステムを備えたピアノ既に広まっており、フンメルやカルクブレンナーなど多くのピアニスト兼作曲家たちによってその可能性が探求されていました。「30番」では第12番も連打の練習曲です。
ただし、第26番は第12番とちがって連打する音は4つで、しかも単に連打を繰り返すのではなく、スタッカートの連打のあとにレガートの分散和音が続いています。この切り替えが、12番で課される難しさです。
ところで、なぜピアニスト兼作曲家は連打を探求したのでしょうか?一般に、楽器になんらかの改良が加えられると、まずそれによって可能になる新しい技術を取り込むためにメカニスム重視の練習曲が書かれます。これを第一段階とすれば、第二段階では、メカニスムはなんらかの表現様式に当てはめられ、表現と結び付けられます(これを「様式化する」といいます)。
同音連打の技巧に関して言えば、ダブル・エスケープメントがすでに普及していた1856年に出版された第26番は丁度、この様式化の時期にさしかかっていたといえます。
では、チェルニーは連打の技巧をここでどのような様式に当てはめているのでしょうか。可能性として指摘できるのは、ギター作品の様式を備えた作品ということです。ここで、当時のギターの技法を一瞥しておきましょう。
19世紀、ピアノほどではありませんがスペインを中心にギターの作曲家が少なからず存在しました。パリで活躍したバルセロナ出身のフェルディナンド・ソルFerdinado SOR(1778~1839)はパリに14年ほど滞在したことのある名ギタリスト作曲家で、1830年にフランス語で書かれた『ギター完全教程』※1を出版しています。
手のポジションや運指、図版をふんだんに使用し、高度な練習曲集を含んでいるこの教程は高い教育的な価値が認められ、ソルの没後、1851年にソルと親交のあったギター奏者ナポレオン・コストNapoléon COSTEによって改訂 版が出版されました。つまり、チェルニーの「30番」と同時代に良く知られていた教則本だということになります。
さて、この改訂版のなかで、ギターの同音連打は次のように解説されています。
反復され、急速なスタッカートで奏され、和声伴奏のつけられたパッセージは時として素晴らしい効果を生み出す(下の譜例24を見よ)。このパッセージの運指は、[撥弦する]右手について言えば、和声をつくる2本の弦と3音符の各グループの最初の音を親指だけで弾き、次の指の順序で続きを引く。親指→中指→人差し指。
改訂版に見られる「反復され、急速なスタッカートで奏され、和声伴奏のつけられたパッセージ」という譜例の解説は、そのまま譜例1に示したチェルニーの第26番の書法に当てはまります。では、この書法が生み出す「素晴らしい効果」とはどのよな効果なのでしょうか。
連打はスペインやポルトガルの舞踊に用いられるカスタネットを想起させるので、楽曲にローカルな風情を与えるのに重要な素材と見做されました。ポルトガルの王妃に仕えていたドメニコ・スカルラッティ(1685~1757)はチェンバロのために書いたニ短調ソナタでこの音型を用いています。
スカルラッティのソナタ集をピアノ用に校訂したチェルニーはチェンバロ時代からのこの伝統をもちろん熟知していていました。チェルニーは、同音連打とアルペッジョというギターと関係の深い音型を用いることで、第26番を通してギターの興趣をかもし出そうとしたのではないでしょうか。
第9小節から始まる中間部に関して、チェルニーは更に「同音連打+和声」というテクスチュアに新しい要素を付け加えています。それは、下の譜例4でマークをつけた中間部のレガートの旋律です。
1840年になると、パリ音楽院ピアノ教授ヅィメルマンは自身のメソッドの中で、この点について、以下のように述べています。
ピアノの弦の改良、より長い弦を用いることによる豊かに持続する響きがもたらされたことによって1840年ころには歌唱風の旋律は中音域に配置されることが好まれました。チェルニーの門弟タールベルクは中音域の旋律を複雑なアルペッジョと組み合わせることで数々の新しい技法を生み出しました※4。
チェルニーは第26番で、人声に近い中音域を連打の音型に重ねてリズムの伴奏と旋律を同時に鳴り響かせています。このように、彼はギター風の性格をもつ様式に、1830年代に発展したピアノ特有の中音域の旋律を組み込んで、特徴的な練習曲に仕上げています。
- Ferdinando Sor, Méthode pour la guitare, Paris, l'auteur, 1830.
- Ferdonand SOR, Méthode complète pour guitare, rédigée et augmentée de nombreux exemples, avec une notice sur la septième corde, Paris, Schonenberger, 1851, p. 21.
- Pierre-Joseph-Guillaume ZIMMERMAN, Encyclopédies du pianiste compositeur, Paris, chez l'auteur, p. 27.
- 譜例は『ピアノ曲事典』、タールベルクの項目参照。