ピティナ調査・研究

30. 作品838 ―和声を学ぶための練習曲集?

「チェルニー30番」再考
第二部「30番」再考
30. 作品838 ―和声を学ぶための練習曲集?

「その他」のカテゴリーにまとめたチェルニーの「練習曲études/étude」のうち、最後にとりわけ異色の練習曲を二回に分けて見てみましょう。それは《根音バスのあらゆる和音についての実践的な知識を得るための練習曲集》作品838と題された曲集で、1854年にパリで出版されたものです。表紙には、この曲集が「芸術家たち」に献呈され、「フランスとベルギーの音楽院で採用」されたことが明記されています。

和声学習のための練習曲集の目的とは?

ところで、この見慣れないタイトルの練習曲集はどのような目的で書かれたのでしょうか。冒頭に掲げられた序文には、その意図が記されています。

根音バスの学習は、まず、あらゆる和音とそれらの用法について、ピアノ上でそれらを組み合わせながら実践的に理解し、それらを確実に演奏ことができるようになると、生徒にとって現実的に有益なものなります。
本作品はその点を目的として作曲されました。
最初の9番までの練習曲は同時に鳴らされる和音の形態で、様々な和声を提示します。一方で、その他の番号は、数多くの様々な形式で実践的な適用例を生徒に示すとともに、華麗な演奏様式を獲得するのに役立ちます。

「根音バス」とは、和音の基本形のもっとも低い音で(例:下からド-ミ-ソのド)、その上に音を積み重ねて和音が形成されるような低音のことです。和声学では、この基本形に基づいて和音の配置を入れ替えたりしながら様々な種類の和音を作っていきます。では、なぜチェルニーはピアニストが和声の学習をピアノの実践に適用することを重視しているのでしょうか?

 
なぜピアニストが和声の実践を学ぶ必要があったのか?

その一つの理由は、ピアニストが即興やピアノ曲の作曲を実践できるようになる点にあります。当時、即興は与えられた主題にその場で和声をつけて変奏したり、ある作品を演奏する前に自由な着想に基づいて即興する「前奏(プレリュード)」の習慣がありました。前奏の習慣は、20世紀の中頃まではまだリサイタルでも見ることができました(J. ホフマンバックハウス等)。18・19世紀には更に一般的な習慣で、当時名のあるピアニストたちの多く(モーツァルトフンメルベートーヴェンショパンヘラー等々)は、演奏家であると同時に卓越した即興家でした。フランスにおいては、パリ音楽院で「実践伴奏」という名前で、室内楽やオーケストラのスコアを読みながら、その場でスコアを鍵盤上の正しい和声に置き換えるという教育が行われていました。このおかげもあって、優れた即興家が育ちやすかったという背景があります。しかし、19世紀の半ばを過ぎると、ピアノ産業の発展の結果、一般市民の家庭に広くピアノが普及するようになります。その結果、かつては「ピアノを演奏すること=演奏者兼作曲家の独自の着想に基づく語り」だったものが、次第に「ピアノを演奏すること=比較的裕福な中流家庭のステイタス・シンボル」となり、貴族や上流階級の前で独自の即興を披露して注目を集めるという必然性は薄れて行ったのです。チェルニーがこのように和声の知識とピアノ実践を結びつけようとする背景には、こうした失われゆくピアニストの音楽的学識と実践への危機感があったはずです。
では、次回は具体的にどのように鍵盤上で和声を学習し、それがピアノ演奏と結び付けられたのかを具体的に見ていきましょう。

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