13. 受容者からみた1830年代末の練習曲~S.ヘラーによるエチュード批評
モシェレスと同様、言葉が楽器の表現内容を過度に規定してしまうことを拒んだショパンは、1833年に出版した作品10以来、1837年に出版された《練習曲集》作品25においても、新しい潮流に左右されることなく練習曲にタイトルの採用を拒み続けました。ショパンは晩年に執筆した未完のメソッドの草稿の中で、思いつくままに音楽を定義しています。「人間の定かならぬ(曖昧な)言葉、それが音である」、「定かならぬ言葉、音楽」、「言葉は音から生まれた―音は言葉以前にある」―これらの定義だけを抜き取ってみても、ショパンがいかに音楽を独自の表出能力をもつ芸術と捉えていたかがよくわかります。
しかし、いかに作曲家が言葉を遠ざけたとしても、ひとたび作品が作曲家の手を離れてしまえば、それがどう解釈されるかは受け取る側の見方にかかってきます。1839年2月24日、パリの音楽雑誌『ルヴュ・エ・ガゼット・ミュジカール』紙に、1837年から38年の間にでた3つのピアノ練習曲集についての批評が掲載されました。この記事の著者ステファン・ヘラーStephen Heller(1813-1888)は、シューマンの激賞を受けたピアニスト兼作曲家で、1838年にパリに到着し、この年から同紙に寄稿を始めていました。ここで批評の対象とされたのは、パリで出版された次の練習曲集でした。
F.ショパン(1810-1849) | 練習曲集 作品25 | 1839年10月 |
A. v.ヘンゼルト(1814-1889) | 12の演奏会用性格的練習曲 作品2 | 1838年2月 |
W.タウベルト(1811-1881) | 12の演奏会用練習曲 作品40 | 1838年7月 |
H.ベルティーニ(1798-1876) | 芸術的大練習曲集 作品122 | 1838年10月 |
このうち、ヘンゼルトとタウベルトの練習曲にはタイトル、全てタイトルがついています。但し、パリのルモワーヌ社から出版された際に、モシェレスのときと同じ様に、これら二つの曲集からはタイトルが全て省かれました。その理由は現段階ではよくわかっていません。
作曲者または出版者がタイトルなし練習曲を刊行するパリでの慣例に合わせたのかもしれません。しかし、青春時代をドイツで過ごしたヘラーはドイツの事情に明るかったのでしょう、彼はタウベルトについてはタイトル付きのドイツ初版を参照し、ヘンゼルトについてはドイツ版を思い出しながら批評を展開しています。
では、次回から数回に分けて、ヘラーがこれらの練習曲集ついて展開した批評の特徴を見ていきましょう。