ピティナ調査・研究

12.モシェレスが掲げた練習曲のモットー ―C. P. E.バッハの言葉

「チェルニー30番」再考
第一部 ジャンルとしての練習曲
~その成立と発展(1820年代~30年代)
12.モシェレスが掲げた練習曲のモットー ―C. P. E.バッハの言葉

前回は、ボヘミアの作曲家モシェレス(1794-1870)がパリで自作の《性格的大練習曲集》作品95(1837)の序文の内容を見ました。モシェレスは、練習曲にとって詩情あふれるタイトルが、演奏者と作曲家の間のイメージ共有を助ける役割を果たしていること強調していました。さて、今回は、彼がこの練習曲集に掲げた「モットー」を見てみましょう。

C. P. E. バッハ (1714-1788)
C. P. E. バッハ (1714-1788)
I.モシェレス(1794-1870)
I.モシェレス(1794-1870)
モットー
いかなる音楽家も、自分自身が感動していないうちは聞き手を感動させることはできないだろう。それゆえ、ぜひとも再現したいと思うあらゆる感情に身を浸していなければならない。彼の感情を理解させるよう努めてこそ、聴き手はその感情を共有することができるのである。

このモットーの引用元は、彼自身が示したようにカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)の『正しいクラヴィーア奏法試論』(1753)で、「演奏」について述べた第3部にこの一節があります。18世紀中期から後期にかけて、ソナタ、ロンド、幻想曲などを中心に数多くの鍵盤作品を作曲したC.P. E. バッハは、「多感様式」と呼ばれる潮流の代表者です。

エマヌエル・バッハはモシェレスの三世代ほど前の作曲家・鍵盤楽器奏者ですが、長生きしたこともあってモシェレスの誕生する6年前まで生きており、その影響力は尚もモシェレス世代にも及んでいました。特に、『正しいクラヴィーア奏法試論』はフランスでも博識な音楽家の間ではよく知られていました。

大バッハがマリア・バルバラ (1684 - 1720)との間に設けた次男であるエマヌエル・バッハはフリードリヒ二世お抱えのチェンバロ奏者で、68年からはテレマンの後任としてハンブルク市で音楽監督を務めるなど社会的にも重要な地位を占めていました。その名声から、当時一般に「バッハ」といえば彼の敬愛した父J.S.バッハではなくエマヌエル・バッハを指したほどです。とりわけ彼の幻想曲には急速なテンポとゆっくりとしたテンポの交替、突然挿入される休止、遠隔調への転調が激しい感情の対比に満ちています。この客観的な形式的均整を危うくする主観的とも言われる表現手法こそが、彼を「多感様式」の代表者と呼ばれるゆえんです。彼は、演奏者は作曲家が作曲したときと同じ情念を抱き、その情念をもって演奏することで聴衆はそれを共有できると考えたのでした。

 もっとも、バッハは演奏者の身振りが聴衆に及ぼす作用については言及していますが、言葉の影響力には触れていません。モシェレスの活躍した19世紀は18世紀後期とは異なり、ロマン主義の潮流のなかで言葉が楽器の調べとともに特定の感情表現の一翼を担うという動きが先鋭化した時代です(この思潮を「感情美学」といい、ベルリオーズリストが代表者です)。新しい時代の芸術思潮の中で、モシェレスはバッハの格言を―おそらく意図的に―誤読して、練習曲のモットーとしたわけですが、そのことによって、練習曲は音楽ジャンルの中でも、ひとつの有効な表現的領域として認められるようになっていたことが、この事例からよくわかります。

同じように練習曲集の各曲にタイトルをつけることは、30年代、主にドイツの作曲家を中心に行われました。ベルリンの重鎮ヴィルヘルム・タウベルト(1811-1891)マンハイム出身のJ. ローゼンハイン(1813-1894)、バイエルン王国のアドルフ・フォン・ヘンゼルト(1814-1889)がとりわけ優れたタイトルつき練習曲を30年代の後半に出版しています。