ブルクミュラーとその周辺(2) ~父アウグストと弟ノルベルト②~
父アウグストが亡くなるとブルクミュラー一家は経済的に困窮したと言われていますが、まだ10代だったノルベルトは、フランツ・フォン・ネッセルローデ=エーレスホーフェン伯爵の支援で勉強を続けることが出来ました(後にノルベルトはピアノ協奏曲Op.1を伯爵に献呈しました)。
1826年にはアウグストが創設したニーダーライン音楽祭がデュッセルドルフで開催され、ルイ・シュポーア(1784~1859)とフェルディナント・リース(1784~1838)が監督を務めたことにより、ブルクミュラー兄弟にとっての転機が訪れます。この年、フリードリヒはロンドOp.1を出版、それにはリースによる出版社との仲介があったといわれています。ノルベルトもこの年からカッセルでシュポーアと彼の弟子モーリッツ・ハウプトマン(1792~1868)に師事することになりました。ちょうどこの頃と思われますが、ノルベルトは兄フリードリヒに献呈した彼唯一のピアノ・ソナタOp.8を作曲しています(ノルベルトの作品番号はノルベルト自身によるもの、フリードリヒの考証によるもの、出版社によるものと混在しているため、作曲順とは無関係です)。
シュポーアとハウプトマンの下で研鑽を積んだノルベルトは、1830年1月14日に自作のピアノ協奏曲Op.1を自身のピアノとシュポーアの指揮により初演し、作曲家兼ピアニストとしてデビューします。この協奏曲は、大胆な和声や重厚なピアノ書法が見られる野心作で、どこかブラームスをも予見させます。しかし、この後間もなくノルベルトは活躍していたカッセルを離れて故郷デュッセルドルフに戻ります。ノルベルトは声楽家のゾフィア・ローラントと婚約していましたが、この頃に結婚が破談になり、そのショックから、てんかんの発作を起こしたからとも、酒浸りになってシュポーアに見放されたからとも言われています(ゾフィアはこの年の10月17日に亡くなりますが、ノルベルトが意気消沈したこととの前後関係ははっきりしていません)。
失意のまま故郷へ戻ったノルベルトは、再びネッセルローデ=エーレスホーフェン伯爵の支援を受けながら音楽教師として生計を立てていましたが、1833年に転機が訪れます。この年、かつてアウグストが努めていたデュッセルドルフ市音楽監督のポストにメンデルスゾーンが就任しました。1834年にメンデルスゾーンは、ノルベルトのピアノ協奏曲をピアニストとして、序曲Op.5を指揮者として演奏。同じ年には、ノルベルトの交響曲第1番Op.2の初演もデュッセルドルフにて行われました(この時の指揮がメンデルスゾーンだったのかノルベルト自身だったのかはわかっていません)。
しかし、またも不運がノルベルトに訪れます。伯爵家で家庭教師をしていたフランス人ジョセフィーヌ・コランとの婚約が再び破談になり、1835年にはメンデルスゾーンもデュッセルドルフから遠く離れたライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の楽長に就任します。さらに、かつて父が務めたデュッセルドルフ市音楽監督のポストをメンデルスゾーンから継ぐこともできませんでした。
ノルベルトは兄フリードリヒが活躍し始めていたパリに活路を見出そうとしますが、その矢先の1836年5月7日、アーヘンにて急死してしまいます。入浴中にてんかんの発作を起こして溺死、というのが定説になっていますが、異説もあるようです。11日に行われた葬儀では、メンデルスゾーンが訃報を受けて急遽作曲した管楽合奏のための「葬送行進曲」Op.103が演奏されました。本当に偶然なことですが、かつてアウグストが創設したニーダーライン音楽祭でメンデルスゾーンのオラトリオ「聖パウロ」Op.36の初演が行われることになっていたため(5月22日)、ノルベルトの訃報が届いた時、メンデルスゾーンはデュッセルドルフにいたのです。
ノルベルトが亡くなると、フリードリヒは弟のかつての師シュポーアと連絡を取り、ノルベルトの遺稿を収集して出版することに力を注ぎました(フリードリヒはノルベルトの作品を出版する活動を晩年まで断続的に続けています)。その結果ノルベルトの作品は広く世に出ることになり、その才能に注目するとともに夭折を惜しむ声も上がりました。その筆頭がシューマンです(後の1850年にシューマンは、かつてアウグストやメンデルスゾーンが務めたデュッセルドルフ市音楽監督に就任します)。
シューマンは自身が刊行していた雑誌「新音楽時報」1839年8月30日号において、「シューベルトの早世以降、(ノルベルト・)ブルクミュラーの早世ほど痛ましい事はない」で始まるノルベルトについての記事を書きました。そして翌1840年、シューマンは同じく「新音楽時報」10月10日号で「3つの良い歌曲集」と題して新刊の楽譜を紹介する記事を書いて、その一つにノルベルトの「5つの歌」Op.10(婚約者ジョセフィーヌ・コランに献呈されています)を挙げました。また12月には同誌の別冊楽譜にノルベルトの歌曲「春の歌」を載せました。歌曲と言えば、まさにこの年はシューマンがクララと結婚して歌曲を次々と書いた「歌の年」でもあります。
さらにシューマンは1851年の12月1日と2日に、未完に終わったノルベルトの交響曲第2番Op.11の第3楽章を補筆し、オーケストレーションを完成させました。それから間もなく、12月12日から19日にかけてシューマンは自身の旧作「交響曲ニ短調」の改訂作業を行っており、これが現在演奏される「交響曲第4番」Op.120なのですが、ノルベルトの交響曲を補筆したことにより気が向いたとする見方もあるようです(改訂版は1853年のニーダーライン音楽祭で初演されました)。もちろんフリードリヒにとっても、弟の未完の曲をシューマンが仕上げてくれたことはこの上なく嬉しい事でした。実はこれについて触れたフリードリヒの書簡があります。ノルベルトの音楽に傾倒していたピアニスト、ヴィルヘルム・シャウザイル(1834~1892)に宛てて書かれた1862年8月19日付の手紙に次のような件があります。
スケルツォのスケッチが最後まで完成していて、オーケストレーションは主部のみノルベルトによって成されており、シューマンがトリオ(と実際にはコーダも)のオーケストレーションを行ったのは事実です。また、シューマンが1852年に作曲したミサ曲Op.147のスケッチの中に、ミサ曲とは関係がなくシューマンのどの曲とも異なるスケッチが紛れていて、これがノルベルトの交響曲第2番の第4楽章の未完のスケッチと同じ調と拍子であるため、この交響曲のための新たなフィナーレを作曲しようとしたのではないかとも考えられています。
こうしてノルベルトの作品は彼の死後評価を上げていきました。さらに次の世代で、ノルベルトの作品を折に触れて取り上げた大家にカール・ライネッケ(1824~1910)がいます。
ライネッケは、フルート・ソナタ「ウンディーネ」Op.167の作曲者として、あるいは歴史上のピアニストとして知られているかもしれません(長生きしたために20世紀初頭にピアノ・ロールを残し、録音史上最長老のピアニストになりました)が、指揮者としても、かつてメンデルスゾーンが務めたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の楽長を1860年から1895年まで務めていて(特に大きな業績として1869年2月18日のブラームス「ドイツ・レクイエム」の完全版初演があります)、その間に、ノルベルトの作品から、1864年に序曲と交響曲第2番を、1865年と1867年にピアノ協奏曲を、1891年には交響曲第1番から第3楽章スケルツォを指揮しています。特に1867年2月19日に行われたピアノ協奏曲の演奏では、ゾフィー・メンター(1846~1918)がソロを務めたことも重要です。メンターは、後にリストの愛弟子となって当代の最も偉大なピアニストとの評価を得る人です。この公演はフリードリヒの存命中に行われたノルベルトの作品の演奏の中でも、特に大書すべきものですので、取り上げることにしました。
さて、次回からはいよいよフリードリヒについて書きます。
- 飯田有抄、前島美保『ブルクミュラー25の不思議:なぜこんなにも愛されるのか』音楽之友社、2014
- かげはら史帆『ベートーヴェンの愛弟子:フェルディナント・リースの数奇なる運命』春秋社、2020
- 岸田緑溪『シューマン:音楽と病理』音楽之友社、1993
- 西原稔『シューマン全ピアノ作品の研究 上』音楽之友社、2013
- 藤本一子『シューマン(作曲家・人と作品シリーズ)』音楽之友社、2008
- 星野宏美『メンデルスゾーンの宗教音楽:バッハ復活からオラトリオ《パウロ》と《エリヤ》へ』教文館、2022
- レミ・ジャコブ(作田清訳)「メンデルスゾーン:知られざる生涯と作品の秘密」作品社、2014
- ed. Ludwig Finscher, Die Musik in Geschichte und Gegenwart, Personenteil 3, Bärenreiter-Verlag, Kassel, 2000
- Bernhard R. Appel, Werkfragmente in Robert Schumanns Skizzen zur Messe op. 147 (ed. Bernhard R. Appel, Schumann Forschungen, Band 3 : Schumann in Düsseldorf : Werke, Texte, Interpretation : Bericht über das 3. Internationale Schumann-Symposion am 15. und 16. Juni 1988 im Rahmen des 3. Schumann-Festes, Düsseldorf, Schott, Mainz, 1993)
- ed. Tobias Koch, Klaus Martin Kopitz, Nota bene, Norbert Burgmüller : Studien zu einem Zeitgenossen von Mendelssohn und Schumann, Verlag Christoph Dohr, Köln, 2009
- Margit L. McCorkle, Akio Mayeda, Robert-Schumann-Forschungsstelle, ed. Robert-Schumann-Gesellschaft, Düsseldorf, Robert Schumann: Thematisch-Bibliographisches Werkverzeichnis, G. Henle Verlag, München, 2003
- ed. Klaus Tischendorf, Tobias Koch, Norbert Burgmüller : Thematisch-Bibliographisches Werkverzeichnis, Verlag Christoph Dohr, Köln, 2011
- Benno Vorwerk, Norbert Burgüller (Beiträge zur Geschichte des Niederrheins : Jahrbuch des Düsseldorfer Geschichts-Vereins, Vierter Band, Druck und Verlag der Buchdruckerei C. Kraus, Düsseldorf, 1889)
- Ralf Wehner, Vorwort zu Leipziger Ausgabe der Werke von Felix Mendelssohn Bartholdy, Serie I : Orchesterwerke, Band 10 : Weitere Orchesterwerke, Breitkopf & Härtel, Leipzig, 2019
1978年生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。少年時代にエディソンの伝記を読んで古い録音に関心を持ち、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した巨匠ピアニストの演奏を探究するようになる。以後、彼らが自らのレパートリーとするために書いた作品及び編曲に強い関心を寄せ、楽譜の蒐集及び演奏に積極的に取り組んでいる。また、楽譜として残されなかったゴドフスキーやホロヴィッツのピアノ編曲作品の採譜にも力を注いでおり、その楽譜はアメリカでも出版されている。ピアニスト兼作曲家として自ら手掛けたピアノ作品の作・編曲は、マルク=アンドレ・アムラン等の演奏家からも高く評価されている。ラヴェルのオペラ「子供と魔法」から「5時のフォックス・トロット」(ジル=マルシェックスによるピアノ編曲)の演奏を収録したCD「アンリ・ジル=マルシェックス:SPレコード&未発売放送録音集」がサクラフォンより発売され、大英図書館に購入される。校訂楽譜に「ピアノで感じる19世紀パリのサロン」(カワイ出版)がある他、春秋社より刊行の楽譜「カール・チェルニー:12の前奏曲とフーガ」でも校訂作業に参加した。コジマ録音より発売のCD「セシル・シャミナード作品集」において「コンチェルトシュトゥック」の室内楽編曲を担当し、坂井千春、高木綾子、玉井菜採、向山佳絵子他の演奏にて収録される。