ピティナ調査・研究

研究活動報告『澤田柳吉 日本初のショパン弾き』第2回 多田純一先生(ピティナ研究会員)

◆ 研究活動報告
『澤田柳吉 日本初のショパン弾き』第2回

ピティナ研究会員 多田純一

1. ピアニストとしての澤田柳吉

澤田柳吉はピアニストとして、新たな道を切り開くような演奏活動を展開していました。大正2年、東洋汽船音楽部の船上楽士として、計4回ハワイ経由でサンフランシスコに行っています。彼は現地で知り得た音楽を日本の演奏会で紹介しました。大正3年7月に有楽座にて「タンゴ大舞踏会」を開催し、さらに翌大正4年7月には同じく有楽座にてダンサーの高木徳子(1891-1919)と共に「東西洋舞踏音楽大会」を開催しました。この演奏会では澤田の伴奏で《遥かなティペラリー》が歌唱され、ラグタイムの日本人初演とされています。
大田黒元雄(1893-1979)がイギリスから帰国した際に、多くの楽譜を持ち帰ったのですが、その楽譜を基にして大正3年11月に「近代楽大演奏会」を行いました(図1)。この演奏会は日本における画期的な演奏会となります。

図1 「近代楽大演奏会」プログラム

この演奏会で注目されるのは、スクリャービン、シェーンベルク、ラフマニノフといった、まさに当時の現代音楽が、リアルタイムで演奏された点にあります。シェーンベルクの作品が大正期に演奏されていたということに驚かされますが、現在、特に親しまれているラフマニノフの《プレリュード》Op.3 No.2を日本人初演したのも澤田であり、彼の視野の広さと新たな音楽への対応力をうかがい知ることができます。

2. 浅草オペラで演奏

澤田の興味はどのような音楽を演奏するかということだけでなく、どこで演奏するか、ということにも向いていました。その典型例が浅草オペラです。大正7年2月、澤田は浅草の日本館で、印半纏を着て《ピアノ・ソナタ》Op.27 No.2「月光」を演奏しました。時にはモーニング、別の日には浴衣、という具合です。浅草オペラは一般大衆の娯楽の場、観光地として広く知られていました。一部の知識人や音楽愛好家のための高尚な音楽とされていたクラシック音楽を、一般大衆に向けて演奏したところに、彼の時代を先取りする感覚が見られます。浅草オペラの観客は、安いチケット代で一流のピアニストの演奏を聴くことができたのです。「月光」の他、《ピアノ・ソナタ》Op.13《悲愴》やショパンの《前奏曲》Op.28 No.15「雨だれ」などが演奏されました。
この時期からさまざまな思想にも影響され、アナキスト(無政府主義者)の大杉栄(1885-1923)や翻訳家の辻潤(1884-1944)等と交流を持ちました。大正11年になると、ソビエト・ロシアの国歌となった革命歌《インターナショナル》の歌が日本でも歌われるようになりますが、澤田はこの最初の練習会を指導しました。さらに仏教の世界にも入り、大正12年2月に浄土宗開宗750年を記念した『浄土宗法要式 洋式音譜附』にて、声明の五線譜化に貢献しました。

3. 作曲家としての澤田柳吉

澤田は外国人教師ヘルマン・ハイドリッヒ(1855- ?)からピアノと作曲を学び、在学中から作曲活動を行いました。明治39年1月に彼の最初の作品《元旦ポルカ》が雑誌『音楽新報』に掲載されたのをはじめとして、ピースとして「調和楽」をはじめ、声楽作品、行進曲、小唄映画の主題歌など幅広いジャンルの作品があります。 
「調和楽」とは日本の旋律を五線譜に書き起こし、さらに和声を付けたものです。明治43年4月出版の《調和楽 十日戎》をはじめとして、計7作品が確認されています。その中でも特に長い期間にわたって出版されたのが、《調和楽 越後獅子》(図2)と《調和楽元禄花見踊》です。セノオ楽譜は竹久夢二(1884-1934)が表紙画を描いたことでよく知られていますが、澤田が出版した《お江戸日本橋》が最初の表紙画にあたります。彼のオリジナルの作品である日本歌曲を含め、計8作品がセノオ楽譜から出版されました。いずれの作品も、旋律の美しさだけでなく、ピアノ伴奏が充実している点が特徴です。

図2 楽譜《調和楽 越後獅子》
図3 楽譜《お江戸日本橋》

東京音楽学校研究科に進学した澤田は、活発に演奏活動を行います。彼が最初に高い評価を得たのは、《華麗なる大円舞曲》Op.18の演奏でした。続いて《ノクターン》Op.27 No.2などレパートリーを増やし、明治41年から演奏しはじめる《幻想即興曲》Op.66で「ショパン弾き」としての名声を確実なものにしました。

解説 「明治末期のクラシックの音楽会と演奏会場について②」 

ピティナ正会員 松原聡

澤田柳吉が登場した明治末期はどの様な状況だったのか?当時の来日演奏家とクラシック音楽会の状況について紐解いてみたいと思います。

1. 明治期の海外演奏家の来日状況

クラシックの普及熱を高めるのに、来日演奏家の公演が大きな刺激を与えるのは今も昔も変わりませんが、明治期にどんな演奏家が来日したのでしょうか?その事情は、正にその時代を知る堀内敬三の著書「音楽五十年史」に書かれ、明治20年代から時折外国の演奏家が来日して演奏会を開いていたが「いっこう優秀な人は来ていな」かったそうです。やがて20世紀に入り、ようやく明治40(1907)年7月に、帝政ロシアの名ソプラノ歌手マリア・ミハイロワ(1864-1943)が来日し、築地メトロポールホテルで演奏会を開いたのが、世界的な演奏家による本格的な来日公演の嚆矢と言えましょう。

図4 マリア・ミハイロワ
図5 築地メトロポールホテル

尚、当時の築地はヨーロッパ人居留地の一地区であり、メトロポールホテルは外国人に人気を博したそうです。1907年1月25日に帝国ホテルと合併し、その取締役会長を務めたのが、新一万円札の顔となる渋沢栄一でした。
次いで、明治44(1911)年1月にイタリアのテノール歌手、アドルフォ・サルコリ(1867-1936)が来日し、亡くなるまで日本に定住して声楽とマンドリンを教え、日本にベルカント唱法を伝え、三浦環等を育成しました。サルコリは、日本最初と思われるクラシックのSP録音を遺しています。

2. 明治期の日本人ピアニストの状況

澤田柳吉が日本人初のショパン・リサイタルを開催した当時の日本人ピアニストの状況はどの様なものだったのでしょう?特にショパンに絞ってざっと見て行きましょう。

早くは明治18(1885)年7月20日に上野公園地内文部省新築館での「音楽取調所卒業演習会」の、遠山甲子女によるポロネーズ(作品番号不詳)が最も早い時期の記録です。あとは、明治43(1910)年 12月4日に華族会館で開催された、音楽奨励会第二回演奏会で貫名美名彦(1889~1955)が幻想即興曲Op.66を披露しています。

なお、ショパンではありませんが、澤田柳吉と同時期のピアニスト久野久が、明治44(1911)年11月25 日付『東京日日新聞』に、東京音楽学校のオーケストラと、教授だったアウグスト•ユンケル(1868-1944)指揮でウェーバーのピアノ協奏曲(番号不詳)を試演の旨が記載されるなど日本勢も着実に実力を付け、澤田柳吉のショパン・リサイタルに至る素地は整っていたのです。

 図6 アドルフォ・サルコリ
参考資料
  • 「音楽五十年史(上)」 堀内敬三著 講談社学術文庫138
  • 「音楽五十年史(下)」 堀内敬三著 講談社学術文庫139
  • 「アドルフォ・サルコリの音楽活動に関する研究(1)」 直江学美著〈金沢星稜大学 人間科学研究 第10巻・第1号 平成28年 9月〉