第6回 「ピアノのための」教則本誕生
1790年代に入ると、ピアノの演奏を前提とする教則本が登場し始めます。最初期の例としては、フランスで研鑽を積んだフランクフルト出身のピアノ教師フィリップ・ヤーコプ・ミルヒマイアー(1749~1813)の『ピアノフォルテの正しい演奏法』(1797)※1が知られています。この教則本はタッチのみならず、ペダルの用法についても詳述したおそらく最初のピアノに特化した教本と見られます。翌年には、オーストリア生まれのイニャス・プレイエル(1757~1831)とボヘミア(現在のチェコ)生まれのヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(デュセック, 1760~1812)による『ピアノフォルテのためのメソッド』※2(1798)がフランスで刊行されています。
1798年、もう一つの重要なピアノ教本が刊行されました。フランスの鍵盤楽器奏者兼作曲家ルイ・アダン(1758~1848)とプラハ生まれのホルン奏者兼作曲家のルートヴィヒ・ヴェンツェル・ラクニット (1746~1820)です。このメソッドが重要だというのは、これが当時創立されて間もないパリ国立音楽院の教材として採用されたからです。ここで、パリ国立音楽院における初期のピアノ教育に話題を絞ってみたいと思います。
1792年8月23日、ルイ16世は39歳の若さで断頭台に消え、一つの時代とともにその生涯を終えました。国民公会は王政の廃止を宣言し、フランスは共和制への第一歩を踏み出します。パリ国立音楽・朗唱院が創立されたのは、ちょうどこの時期のことです。現在、パリ国立高等音楽・舞踊院(CNSMDP)の元となった学校で、既に音楽マンガの「古典」となりつつある『のだめカンタービレ』でもおなじみですね。音楽の他に「朗唱」が入っているのは、演劇やオペラ歌手が舞台で語る朗唱の教育も行っていたからです。
「大学(ユニヴェルシテ)」とも「学校(エコール)」とも違う「コンセルヴァトワール」という名称は、イタリアの孤児院である「コンセルヴァトーリオ」に由来します。もとは「保存する」、つまり孤児を「保護する」という意味でしたが、コンセルヴァトーリオでは孤児に音楽教育を施していたこともあり、職業専門教育機関の名称として定着しました(音楽の他にも、フランスには国立工芸院CNSMも設置されています)。あの《四季》で有名なアントーニオ・ヴィヴァルディも、ヴェネツィアの孤児院ピエタ慈善院(Ospedale della Pietà)で女子の音楽指導に当たっていたことが知られていますね。少しばかり余談になりますが、1770年にヴェネツィアを訪れた音楽著述家チャールズ・バーニーの見聞録によると、ピアタ慈善院では歌も楽器もすべて少女たちが担当し、彼女たちは「オルガン、ヴァイオリン、フルート、チェロ、そしてフレンチ・ホルンまで」※3演奏したと言います。この少女たちは、結婚するまでこの孤児院で育てられました。
パリ国立音楽院・朗唱院に話を戻しましょう。パリ音楽院は国民の無償音楽教育を旨として1795年に国民公会で設置が決定され、翌年に開校しました。この音楽院は「共和制」の申し子というわけです。19世紀のフランスでは度重なる政変が起こったため、そのたびに名称が変わりました。第一・第二共和制下では「国立(national)」、第一・第二帝政下では「帝国(impérial)」、復古王政下では「コンセルヴァトワール」という名称を嫌い、旧体制下の王立歌唱学校になぞらえて「エコール(école)」と呼ばれました。ここでは、名称を統一的に「パリ音楽院」と書くことにします。
さて、革命直後に創立されたパリ音楽院では、早々に「脱チェンバロ(クラヴサン)」化が進められました。創立後、早くも1798年には、ルイ・ゴベール教授が受けもっていたクラスの名称がチェンバロからピアノに変わっています※4。これは、おそらく同年にパリ音楽院で教材として認められた『フォルテピアノのためのメソッドあるいは運指の一般原則』(2巻)が出版されたからでしょう。その著者は、ルイ・アダン(1758~1848)教授とホルン奏者でオペラ座の一員、ルートヴィヒ・ヴェンツェル・ラクニット(1746~1820)です。プラハ生まれのラクニットは音楽院教員でもなく、ピアノ作品は書いているとはいえ名高いピアニストというわけでもありません。そんな彼がこのメソッドに加わった経緯は判然としません。このメソッドは、その後1804年にラクニットの名を除外してアダンの著作として編み直され、改めてパリ音楽院の総会で採用されます。一方のラクニットは1805年頃、このメソッドの続編として第3巻を単独で出版しています。もしかしたら二人の間に何らかの諍いがあったのか、あるいは音楽院は、教本を他の学科同様、音楽院の成員のみによって編纂したかったのかもしれません。
ともあれ、新設されたばかりの国家的教育機関が教材を編纂するにあたり、はじめからチェンバロを対象とせず「ピアノ」に限定したことは、ピアノとピアノ音楽の普及にとっては重要な意味を持っています。次回は、この最初期の「公式」メソッドに収録された作曲家を見てみることにしましょう。
- Philipp Jacob Milchmeyer, Die wahre Art das Pianoforte zu spielen, Dresden, Meinholdm 1797. 日本語訳は下記文献に所収。小沢優子、小保田慶一「ピアノフォルテの正しい演奏法(1897)」『日本チェンバロ協会年報』日本チェンバロ協会 年報 2018 第2号および2019年第3号。
- Jan Ladislav Dussek and Ignaz Pleyel, Méthode pour le piano-forté, Paris, Pleyel, 1798. この教則本は、1796年にイギリスで刊行された『ピアノフォルテまたはハープシコードの演奏技法の教育Instructions on the Art of Playing the Piano Forte or Harpsichord 』のフランス語版です。
- チャールズ・バーニー『音楽見聞録〈フランス・イタリア篇〉』、今井民子、森田義之訳、春秋社、2021、210頁。
- 例えば、このクラスで学んだ後にパリ音楽院ピアノ教授となるルイ・プラデールは、1797年に「クラヴサン」の2等賞を、翌年に「ピアノ」の1等賞を獲得しています。Cf. Frédéric de La Grandville, « La coexistence du clavecin et du piano au Conservatoire de musique de Paris de 1796 à 1802 », dans Le pianoforte en France 1780-1820, Paris, CNRS éditions, coll. « Musique-Images-Instruments : revue française d'organologie et d'iconographie musicale », no 11, 2009, p. 154.