ピティナ調査・研究

第4回 チェンバロ文化の中のピアノ

ピアノ音楽が「古典」になるとき
第4回 チェンバロ文化の中のピアノ

レパートリーとは、コンサート・ピアニストが共有し、オファーがあれば何時でも演奏できる曲群のことを指します。現代では、過去の豊富な作品の数々からレパートリーに含める曲を選択することができますが、ピアノが破竹の勢いでチェンバロを圧倒して巷に普及していった18世紀末から19世紀初頭、ピアノ音楽の「古典」と呼ぶべきピアノ固有のレパートリーは、まだ形成されていませんでした。ここで「ピアノ固有の」を強調するのは、この時期、チェンバロによる音楽実践とピアノによる音楽実践が併存していたからです。
前回見た通り、こんにち私たちが「ピアノ」と称している楽器は、1700年頃、フィレンツェの楽器製作者バルトロメオ・クリストーフォリによって発明され、以後、約一世紀に亘りピアノとチェンバロが共存する時代が続きます。皆さんの中には、「バロック時代はチェンバロ」、「古典派以降はピアノ」というイメージをお持ちの方もおられるかもしれません。しかし、このイメージは正しくありません。ちょうど区切りがよい数字ですので、「バロックの大家」ヨハン・ゼバスティアン・バッハの没年である1750年を念頭に置いて考えてみましょう。すでにお伝えしたように、大バッハの没年にはピアノは発明されてから半世紀が過ぎています。ピアノは1730年代までにドイツの鍵盤楽器制作者一家ジルバーマンの工房でも作られていましたし、バッハは生前にジルバーマン・ピアノを弾いています※1。ジルバーマンのピアノの音色は「玉のようにまろやか」と表現され、チェンバロやクラヴィコードに対してすでにその音色の特性が認識されていました。

クラヴィコードによる演奏:J. S. バッハ《ゴルトベルク変奏曲》BWV 988より〈アリア〉
演奏:武久源造
チェンバロによる演奏:J. S. バッハ《2声のインヴェンション》第15番ロ短調BWV 786
ジルバーマン制作のピアノ(レプリカ)による演奏:J. S. バッハ《パルティータ第2番》より〈カプリッチョ〉

フランスでは、遅くとも1759年にはフランスの新聞で「ピアノ・エ・フォルテと呼ばれる、新発明のクラヴサン」が紹介されており※2、低音はハープやリュートに似た「丸みをおびた柔らかい響き」と描写されています※3。その約10年後の1768年には、パリのコンセール・スピリチュエル※4で、初めてピアノが公開演奏会に登場しました※5。この頃のピアノの流行は、1770年にパリに滞在したチャールズ・バーニーの体験記からも裏付けられます。6月、バーニーはパリでクロード=ベニーニュ・バルバトル(1724~1799)の弾くオルガンとチェンバロを、そしてアルマン・ルイ・クープラン(大クープランの又甥, 1727~1789)の弾くオルガンを聴きました。その後で、バーニーは素晴らしい「チェンバロ奏者」兼作曲家、ブリヨン夫人ことアンヌ=ルイーズ・ブリヨン・ド・ジュイ(1744~1828)に会っています。彼によると、当時「ピアノフォルテ」はパリに「もたらされたばかり」で、夫人はこの新楽器の当代随一の奏者でした。バーニーは、その場で彼女がチェンバロとピアノの両方を演奏するのを聴いています。

ブリヨン夫人(1744~1828)
(ジャン=オノレ・フラゴナール画)

目新しい音色を持つ新型チェンバロ=ピアノとチェンバロを並べて演奏する可能性も十二分にありました。大バッハの次男カール・エマヌエル・バッハによる《チェンバロとピアノのための二重協奏曲》(1788作)は、両楽器の音色の対比を意図した興味深い作品です※6。ピティナ主宰の公開録音コンサートで、武久源造さんと宮崎貴子さんにより収録された以下の動画では、父バッハが作曲した二台のチェンバロのための作品(BWV1061)で、同じ編成による演奏が試みられています。

ピアノとチェンバロは「異なる楽器」なのに、並んで演奏しているのは不思議だと思われるかもしれませんが、ここで注意しておきたいのは、「『ピアノ』は広範な『チェンバロ』文化の一部であった」※7と言われるように、クリストーフォリの発明以来、ピアノはチェンバロを圧倒するまでの間、新型のチェンバロと認識されていたということです。そのことは、ピアノがフランスで「ピアノ・エ・フォルテと呼ばれる、新発明のクラヴサン」と紹介されていたことからも分かります。この表現は、すでにイタリアの詩人シッピオーネ・マッフェーが1711年にクリストーフォリの楽器について「弱音[ピアノ]とフォルテ[強音]の出るグラヴィチェンバロ」という言葉で述べています※8。18世紀初頭から半ばまで、ピアノはチェンバロの変種であり、逆にチェンバロといえば、私たちが「チェンバロ」や「グランド・ピアノ」と呼んでいる、あの形状をした鍵盤楽器のことを指す上位概念だったことがわかります。


注釈
  • 武久源造「ドイツを中心として見た初期ピアノ関連年表」(ピティナ・ピアノ曲事典・公開録音コンサート『ピアノをみつけたバッハ~バッハ= チェンバロという大きな誤解~』 ハンドアウト、2015年。
  • Michael Latcham « In the shadow of the enlightenment ; stringed keybord instruments in Didrot's Encyclopédie and its derivatives » , dans Le pianoforte en France 1780-1820, Paris, CNRS éditions, coll. « Musique-Images-Instruments : revue française d'organologie et d'iconographie musicale », no 11, 2009, p. 19.
  • 武久源造、前掲資料。
  • キリスト教の教会暦で、イエス・キリストの受難を記念する四旬節の間は、オペラなど華美な音楽の上演が禁じられていたため、パリでは1725年に宗教や器楽を演奏するためにコンセール・スピリチュエル(宗教的演奏会)という演奏団体が設立された。
  • Malou Haine, Les facteurs d'instruments de musique à Paris au 19e siècle : des artisans face à l'industrialisation, Bruxelles, éditions de l'Université de Bruxelles, « Faculté de philosophie et lettres », 1958, p. 48.
  • Cf. 小岩信治『ピアノ協奏曲の誕生―19世紀ヴィルトゥオーゾ音楽史』東京:春秋社、2012年、23-26頁。
  • 同前、28頁。
  • 「グラヴィgravi-」は「重たい」を意味する接頭辞と取れますが、「鍵盤」を意味する「clavi-」が変化したものかもしれません。語源について、筆者にははっきりしたことは言えません。