ピティナ調査・研究

第2回 音楽体験の「意味」の変質(2)

ピアノ音楽が「古典」になるとき
第2回 音楽体験の「意味」の変質
(2)「親しげな」演奏家像

1997年にリヒテルが世を去って10年も経たないうちに、人々は音楽家の社会的意味が変質したことを声高に述べるようになりました。2006年、世界各国115のコンクール団体が加盟する※1国際音楽コンクール世界連盟(WFIMC)において、同連盟の創立50周年を迎えた2006年、「次の50年The Next Fifty Years」と題する総会のセミナーが開催されました。その中で次のような見解が表明されています。

我々は今や視覚の時代に生きています。そこでは、身体的な外見が非常に重視され、人々はもはや芸術家をかつてのような畏怖をもって見ようとはしません。視覚メディアはシリアスな音楽にはほとんどといっていいほど役立ちません。クラシックのラジオは次第に集中的聴取のためというよりはBGMとしてデザインされるようになり、印刷メディアに割かれるスペースも激減しています※2

コンクールや演奏会の主宰者は、演奏家と聴き手の関係の変質に直面し、演奏会のあり方を根本的に見直し、時流に即した様式を模索するようになりました。
そのような中、2010年前後にインターネットのライブ動画配信が一般化したことは、演奏家、作曲家、作品の関係に大きな変化をもたらしました。バーチャル空間における演奏者と聴衆の関係は、コンサートホールにおける奏者と聴衆の関係とは大きく異なります。バーチャル空間の視聴者=聴衆は、聴くことと等しく、あるいはそれ以上に「観る」ことを重視しています。リヒテルが自らの存在を聴衆の視界から消したのとは対照的に、演奏者の手と表情がアップで映し出され、その横にコメントやスーパーチャット(オンライン上で寄附できる投げ銭)が飛び交います。そのような空間で視聴者が注意を注ぐのは、決して暗闇の中に浮かび上がる、「作曲家の代理人」としての演奏家でもなければ、神々しい「作品そのもの」でもありません。そこに人々が観ているのは、等身大の「すごいあの人」の姿です。ライブ動画の視聴者は、会場に設置されたカメラによって、現場で着席している聴衆とは全く異なる視点を与えられています。演奏者の手や表情を間近に見ることができ、自分自身や自分の友達、子ども、兄弟と同年代の若者が演奏する姿を、一挙手一投足も疎かにせず、熱く親しげな視線を注ぎます。森本隼太さんの演奏する姿に心震わせながら「私の弟より若い」とコメントする視聴者にとって、画面上で繰り広げられる演奏は日常から隔絶された遠い世界の出来事ではなく、日常と比較しうる「あの人」が行っている「すごい」現象として立ち現れています※3。聴き手は演奏者と緊張を分かち合い、いわば自分が演者になったような没入感を持ってパフォーマンスに参加します。
このような聴取の場では、作曲家も親しみの輪のなかに位置づけられます。2020年の「特級ファイナル」では、4名のファイナリストのうち、3名がラフマニノフの《ピアノ協奏曲第3番》を演奏しました。ライブ配信ではコメンテーターによる解説が行われましたが、そこで紹介されるラフマニノフは、台詞つきのマンガ風イラストの肖像画です。

図1は、配信中に行われた飯田有抄さんによるラフマニノフの解説コーナーからのキャプチャ。ラフマニノフは「そこら辺にいるオジサン」として「キャラ」化されている(せりふ「これからギャグ言います ニヤッ」)

カメラを通して生み出される「親しみ」を伴う音楽体験は、どこか違う世界で起こっている神々しい現象ではなく、日常の延長線上にある物語として生きられ、記憶されます。この場合、音楽経験の価値は、「作品に内在する意味」を理解することではなく、その奏者がどのような状況でどのように、どんな作品を弾き、その結果自分や同じバーチャル空間にいる人々にどのような感動を引き起こしたのか、という一連のプロセス=物語にあります。それゆえ、視聴者は「プログラムノート」に書かれている知識がなくても、また、作品の構造を理解した上で聴くことができなくても、満足のいく体験をすることができます。

さて、ここで「古典」に話を戻しましょう。今述べたように、演奏を集団的な「物語」として体験することは、教養を前提としません。ここに、音楽の「古典」が抱える現代的なパラドックスが浮かび上がってきます。そもそも「古典」は教養主義(エリート主義)の上に社会的価値を獲得してきました。それなのに、現代では教養主義からの脱却が加速しています。そのなかで、今日、「古典」はどこに確かな存在根拠を求めればよいのでしょうか。ある音楽作品が「古典」であるということは、演奏家とともに創り上げる物語の「誰もが知るテーマ曲」のようなものとして、再定義すべきなのでしょうか。

もちろん、そのようなものとして「古典」を理解するのもよいでしょう。と同時に、筆者は知識や教養への道を閉ざすべきではない、と考えます。音楽体験の意味が変化したとしても、なぜその作品は魅力的なのだろうか、という問いは、いつの時代にも立ちうるからです。そして、その疑問を言語化することは、決して無駄なことではありません。それはむしろ、言語にしがたいものの魅力をいっそう引き立てるような議論を生み出す、それ自体で創造的な営為です。さまざまなメディアを駆使して音楽体験を広く開いていくと同時に、これまで以上に知識をアクセスしやすいものにする努力が不可欠です。そうでなければ、「古典」という言葉は、その歴史的な厚みをそぎ落とされ、意味の無い響きだけが残ってしまうことでしょう。


注釈
  • 2021年現在。World Federation of International Music Competitions Year Book 2021, pp. 23-24.
  • 訳は次の文献より引用。神保夏子「『競争』から『共創』へ――国際音楽コンクールの現在」『音楽を通して世界を考える――東京藝術大学音楽学部楽理科土田英三郎ゼミ有志論集』東京:東京藝術大学出版会、2020年、599頁。
  • このような「すごい演奏」を2010年代に若年世代で一般化した日本語を用いて表現するなら、「神パフォーマンス」などと言えるでしょう。接頭辞として用いられる「神-」という表現の「神」は、一神教的な神ではなく、日常に偏在するアニミズム的な神(精霊・妖精)というニュアンスがあるように思います。