ピティナ調査・研究

はじめに(1)

ピアノ音楽が「古典」になるとき
はじめに(1)

この10年あまり、書店を訪れると「古典」をテーマにした書籍が目につくようになりました。ビジネス書では、偉人に学ぶ経営者の心構えや、外交ツールとなりうる教養として「古典」がもてはやされています。

大学などで研究や教育に携わる人にとっても、「古典」は昨今しばしば話題に上るキーワードです。しかしこの場合は、「古典は役に立つ」と語るビジネス書とは違って、むしろ「古典」の危機や喪失を強調したり、「古典」の意義の再考を促したりする文脈で用いられる向きがあります※1。その理由は、端的に言えば、「古典」の存在意味が自明のものではなくなってきた、というところにあります。

なぜそのような事態になってしまったのでしょうか。つい数十年前までは、「古典」にはそれ自体に価値があるから学ぶのだ、と考えられていました。明日の社会にとって何の役に立つかはあまり問題にならないし、また役立てるべきだという考え方は、ごく限られた範囲でしか主張されていなかったように思います。かつては「古典」に精通している人が社会で占める割合はごく僅かで、そうした人々は知的エリートとして大学教授になったり、外交官のような地位に就いたりするもの、というイメージがありました。

「古典」を学ぶのは大学です。大学への進学率を見れば、そのイメージが数字としてはっきりと浮かび上がります。じっさい、短大および大学への進学率は21年前(平成元年)でさえ男女平均で36.3%にすぎず※2、本格的に古典文学や芸術の古典(音楽、絵画、演劇等)を勉強する人口は決して多くはありませんでした。しかし、この進学率は平成時代に50%を越え、令和2年には58.5%となり、いまや大学に進学しない人の方が少数派となりつつあります。その背景には、1991年(平成3年)の大学設置基準の大綱化を契機として始まった大学改革があります。一連の改革のお陰で、大学はいっそう広く、いっそう多くの人々に門戸を開くようになりました。もちろん、音楽大学や音楽学部、音楽科、音楽コースを設置する芸術大学や一般大学も例外ではありません。

そうした中で、「古典」の存在理由が変化したのは当然といえるでしょう。大学進学率の上昇に伴い、大学教育は知識人や学者を量産することよりも、専門知識を社会のために「役立てる」ことを求めるようになりました。「古典」はもはや純粋な知的探究の対象とは位置づけられず、社会に役立てるべきものとして、新たに意味づけられるようになりました。いわば、「古典を学ぶ」のではなく、「古典で学ぶ」ようになったのです。

「古典」と呼ばれる作品を社会的に活用しようという考え方自体は、素晴らしいものだと思います。なぜなら、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』であれ、紫式部の長編小説『源氏物語』であれ、モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚》であれ、古典作品が「古典」たる意味を問い続け、周囲の人々に伝えることは、それ自体、創造的な営みだからです。授業をおろそかにして、古典を読み耽っていては、ただの趣味と変わりありません。

しかしその一方で、古典作品の価値を、その時々のニーズに応じて「役に立つ」かどうかという視点でだけ皮算用するようになってしまっては、本末転倒です。じっさい、どう「役に立つか」ということは、書こうと思えばどうにでも書けてしまうものです。大切なのはバランスで、「古典」やそれ育んだ文化を深く研究する専門家を長期的に育みながらも、知識を活用して社会貢献できるような枠組みです。


注釈
  • 2010年以降の書物では、例えば下記の書籍が挙げられます。藤本夕衣『古典を失った大学――近代性の危機と教養の行方』(NTT出版、2012年)。木俣 元一、松井裕美 編『古典主義再考I 西洋美術史における「古典」の創出』(全2巻、中央公論美術出版、2021年)。
  • 2020年の学校基本調査資料に基づく。データはe-Statより取得