ピティナ調査・研究

第1回 音楽体験の「意味」の変質(1)

ピアノ音楽が「古典」になるとき
第1回 音楽体験の「意味」の変質
(1)「神聖な」演奏家像

「ショパンとラフ3だとトリプルアクセルと4回転ジャンプくらいの差があるかもしれない。」「あと少し頑張れ・・・」――これは、2020年、コロナ感染拡大下で行われた「2020 ピティナ・ピアノコンペティション」特級ファイナルのライブ配信動画(YouTube)のチャット欄に投稿された、インターネット上の聴き手の声です。

サントリーホールから配信されたこの決戦には、全く異なる音楽体験をする2つのタイプの聴衆がいます。一方は今挙げた「オンライン」の聴衆です。このような聴衆は、ごく新しいものです。もちろん、テレビやラジオを通して演奏会が中継されることはずっと以前からありましたが、個々の受信機の前にいる聴き手は、同じ場所にいなければ体験を共有しているとは言えません。つまり視聴者ではあっても聴「衆」とは言えません。しかし、ライブストリーミングでは、聴き手が同じ場所に居なくても瞬時に感動や感想を共有しています。そのような聴衆が集うライブ配信プラットフォームが次々に登場したのは、2010年代に入ってからのことです。

もう一方は、現場で生の音と向き合う、従来型の聴衆です。世界最高水準の音響を誇るサントリーホールでコンテスタントを見守る聴衆は、ホールという場所によって、静寂の中で音楽家と向き合うことを要請されます。物理的に規定される会場は、旧来の聴取様式に適した空間です。客席の明かりは落とされ、ステージが日常と隔絶された世界として立ち現れます。会場には、日常とは切り離された特別な時間が流れています。日常の音(=ノイズ)は防音装備によって遮断され、聴衆は純粋に楽音だけを聴くように仕向けられます。

この二種類の音楽体験を比べたとき、ライブ動画配信は、単に「現場」での聴取に代わる行為なのでしょうか。実は、この2つのタイプの聴衆の間には、演奏家と聴き手の関係という点で本質的な相違があります。

まず、「従来型」の聴取空間における音楽体験について考えてみましょう。コンサートホールの設計は、演奏、そして演奏される作品が、最大限の敬意を払って聴かれるべきだ、という考え方に基づいています。もちろん、作品を聴きにくるというよりも演奏家を応援にきたり、単に心が落ち着くという理由でクラシック音楽を聴きに来たりする人もいることでしょう。しかし、その空間は来場の目的が何であれ、一定の聴き方を私たちに要請します。つまり聴衆は、日常の主人公である「私」よりも、どこか高い次元にある作品と向き合うことを求められるのです。コンサートホールでは、演奏される作品は「神聖な」存在であるかのように扱われます。

もっとも、現代において祈りを捧げるような敬虔な気持ちでコンサートホールにやってくる人はあまりいないでしょう。「神聖な」という表現は、いささか大げさかもしれません。しかし、コンサートホールという特殊な空間を「神聖な」と形容することは、それほど的外れではありません。音楽を聴くためだけに文明の英知を結集し、特殊な音響空間として建造された演奏会ホールは、純粋に祈りという行為のために建てられたキリスト教の教会の形式と類似しています。教会は、封建時代から貴族も貧民も身分に関係なく音楽を聴くことの出来る数少ない公共空間でした。祭壇に向き合うように会衆席が並ぶ空間配置が、18世紀以降各地に作られた公開演奏会用のコンサートホールのそれと似ているのは、決して偶然ではないでしょう。

ドビュッシーやモーリス・ラヴェルといったモダニストとたちと同時代に活動したフランスのピアニスト、エドゥアール・リスレール(1873~1929)は、1905年、フランスで初めてベートーヴェンのソナタ全曲の公開演奏を行った人物として知られています。彼にとって、ベートーヴェンは信仰の対象でした。彼の言葉を引用します。

ベートーヴェンの音楽を演奏することと、それ以外の作品を演奏することに違いを付けようとするなら、こういうことになると思います。それ[ベートーヴェンの音楽]のほうがいっそう高い敬意、つまり芸術への宗教的な愛を求めます。ベートーヴェンは、音楽のキリストとして私の前に立ち現れるのです※1

当時、人々は「べ―トーヴェンはリスレール、リスレールはベートーヴェン」※2と口にしたといいます。彼にとってベートーヴェンが神のような存在であるなら、リスレールは神の御言葉を授かる預言者として、ステージに立っていたのでした。作曲家の代理人としての意識は、さらに一世代後のピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテル(1915~1997)も持っていました。リヒテルは楽譜を見ながら演奏するようになった経緯を語るときに、楽譜と作者に対して、次のように述べています。

演奏家とは、じつのところ、ひとりの執行者です。作曲家の意志を正確に司る者です。作品に書き込まれていないものは何も持ち込みません。もし彼に才能があれば、作品の真実をかいま見させることができます。天才的なのはそうした真実のみであり、それが彼のなかに反映するのです※3

もっとも、演出家としての気質を持ち合わせるリヒテルは、コンサートホールの「形式主義」にはむしろ批判的で、19世紀のサロンのような空間や田舎の古い穀物倉庫を会場として演奏することも好んだといいます。とはいえ、とくに彼の晩年のコンサートホールでの振る舞いは、作品への集中を要求するものでした。リヒテルが1989年3月にロンドンのバービカン・センターで開いたリサイタルの記録映像はとても印象的です。モーツァルトのソナタを弾くとき、ホールの照明はほとんど落とされ、ピアノの横に置かれた40ワットの白熱球だけが譜面を照らしています。テレビ放映のために5万ワットの照明が必要だったところを、リヒテルが譲らなかったのだと言います。リヒテルのねらいは、聴衆を音楽に最大限に集中させることと、演奏家の存在感を薄めることにありました※4。外界の音のみならず視覚的要素も最小限に抑えられた空間には、鳴り響く作品だけが浮かび上がります。そこには、まさに修道院で執り行われる聖務のような、神秘的な雰囲気が漂っていたことでしょう。これもリヒテル流の舞台演出なのかもしれませんが、「肝心なのはきちんと演奏することであって、演出ではありません」※5と語っているように、本質的には、彼の意図は作品に語らせること、そして聴き手がその作品に集中できるようにすることにありました。
演奏家にとっても聴き手にとっても、音楽体験は作品に内在する意味を悟ることにあったと言えます。


注釈
  • Pierre Hermant, Charles Koechlin, André Coeuroy, et al. Les cinquante ans de musique française, L. Rohozinski (dir.), Paris, les Éditions musicales de la Librairie de France, 1925,p. 333.
  • Ibid.
  • ブリューノ・モンサンジョン『リヒテル』中地義和、鈴木圭介訳(東京:筑摩書房)、214頁。
  • 右のDVDジャケットの解説参照。Sviatoslav Richter piano Mozart Chopin, Series Classic archive, DVD, medici arts, 2008. ショパンの練習曲第1番で、照明がやや明るさを強めるところでリヒテルは演奏中に照明のほうを見上げるような仕草をしているのが印象的です。
  • ブリューノ・モンサンジョン、前掲書、215頁。