ピティナ調査・研究

ショパン国際コンクール(4)一次予選4日目 再現部を聴く

ショパン国際コンクール4日目(10月6日)

78名が弾く第一次予選は、いよいよ後半に突入!
ショパンの時代はネットも電話もなく、手紙だけが遠距離の交信手段だった。一度離れれば、次にいつ会えるか、いつ戻れるか分からない。ショパンは故郷ポーランドを20歳で離れてから、終生戻ることはなかった。まさに人や土地との出会いは一期一会である。そんな時代に再会を果たすということは大きな意味があっただろう。曲でいえば、いわば再現部である。ショパンはどんな思いでテーマを再現させたのだろか。本日は「再現部」で印象的な演奏をピックアップしてみた。

69番アレクセイ・タルタコフスキー(米国)はノクターンOp.48-1は左右のバランスがとれ、立体的に響いてくる。エチュードOp.10-1はブリリアントに、Op.25-6の3度もよく弾けている。バラード1番はたっぷりと歌い上げる序奏から始まり、解けない謎を問いかけるかのような主題へ、これが曲全体にテンションを与えている。再現部でもまだこの謎は解けぬまま、コーダへ突進してテンションは頂点に達する。その勢いが最後まで貫かれた。「何故なんだ」という心の置き場がない感じである。全体の大きく捉える構成力がある。
※使用ピアノ:ヤマハ(photo:Wojciech Grzędziński NIFC)

59番シャルル・リシャール・アムラン(カナダ)
ノクターンOp.62-1は丁寧に心を込めて、静かに感極まった再現部も美しい。堅実なエチュードOp.10-12、Op.25-5に続き、バラード3番はふくよかな音で奏でられ、全編を通して誠実さが伝わってくる。
※使用ピアノ:ヤマハ

67番 竹田理琴乃さん(日本)
ノクターンOp.27-2は明朗でよく伸びる音。やや民謡風の歌い方だがしっかり自己主張がある。エチュードOp.10-4も伸びやかな音でぱりっと。Op.25-5はエチュードの範疇を超えているかもしれないが、テンポを揺らしながらリズム特性や旋律の妙味を表情豊かに表現した。スケルツォ4番はバス音が心地よく曲を推進していく。和声をよく聴いており、中間部の表現も素晴らしい。その他、繰り返されるモティーフの表現を少しずつ変えるなど、細かい部分にも配慮が行き届いた演奏。
※使用ピアノ:カワイ(photo:Wojciech Grzędziński NIFC)

65番 須藤梨菜さん(日本)
ノクターンOp.9-3は伸びやかで開放的な音、フレーズの末尾の上がり方に開放感があり何とも心地よく響く。中間部に入りにはもう少し間をたっぷり取ってもよかったかもしれないが、そこを経ての再現部は充実していた。エチュードOp.25-5は再現部の表現が霞かかったように、そして充実した音で締めくくる。Op.25-11は雄大に。スケルツォ3番は第2主題の一つ一つの和音に表情があり、舞い降りてくるパッセージも美しい。
※使用ピアノ;ヤマハ(photo:Wojciech Grzędziński NIFC)

61番クリスチャン・イオアン・サンドリン(ルーマニア)
ノクターンOp.55-2は旋律を熱く歌う、内声が大きすぎるかと思ったが意図的だろうか。バラード3番は後半になるにしたがい華麗に展開していき、構成が考えられた演奏。エチュードOp.10-8は囁くような語り口で始まり、左手の旋律を朗々と、右のパッセージはあくまで装飾的な扱いに、そして囁くように終わった。Op.25-10も静から動へという大枠の構想。連打は動の中に静の表情があり、中間部は静の中にささやかな動の表情があり、最後は荒々しい動で締めくくった。
※使用ピアノ:ヤマハ(photo:Wojciech Grzędziński NIFC)

58番カウシカン・ラジェシュクマール(英国)
舟歌は速いテンポで2拍のようにして浮き上がるような軽さから始まり、左手は絶え間ない波のように静かに背景を描きながら、次第に重みを増していく。再現部はいよいよ目の前に迫りくるような雄大な展開。ノクターンOp.62-1は旋律を際立たせるために左は極力抑え、また旋律の歌わせ方は自分の感性にしたがったものである。エチュードOp.10-11はミスタッチで焦ったか、しかしOp.10-5は軽快に、最後は威勢良い音で終えた。

64番ディミトリ・シシュキン(ロシア)
エチュードOp.10-1はまるでオープニングパレードのような華やかさで、Op.10-2は無機質なまでに正確な右手のパッセージに、左手1拍目を繋いだ旋律が動きと変化を与える。現代的な音の感覚の持ち主で、Op.10-3は日本人が「別れの曲」というタイトルから想像する憂いの表情はなく、造型美のみを描き直したアクリル画(?)のよう。バラード2番はやや力任せか、音の奥にひそむ微細な感情の動きも追ってほしい。
※使用ピアノ:ヤマハ


1830年ショパン20歳。ショパンはワルシャワを離れ、ウィーン経由でパリに入る。まさにその直後、ロシア帝国の侵攻に対して、ワルシャワの士官学校生および民衆が蜂起した(1830年11月29日の11月蜂起)。ショパンは複雑な思いで、ウィーンから故郷へ思いを馳せている。ちょうどこの数日前、ステファン大寺院で憂いあるハーモニー(クリスマスキャロル)を聴き、それがスケルツォ1番Op.20の中間部になっている。その頃の手紙を一部抜粋したい。

「ぼくは帰れば父の重荷になるだろうし、それさえなければすぐにでも帰るのだが。ぼくは自分が出発したあの瞬間がのろわしくなる。・・・(中略)義理ででかける晩さん会、夜会、演奏会、舞踏会など、どれもこれもほんとうにうんざりしてしまう。全く憂鬱で、無気力で、淋しいのだ。こんなひどい思いをする境遇でなければ、ぼくはこういうことはみんな好きなのだ。ぼくは自分が望むようにはできないのだ。服装をととのえ、髪をくしけずり、靴を履き、客間では冷静をよそおっていながら、家に帰ってはわが激情のありったけをピアノに向かってぶちまけるのだ。胸襟を開いて話し合える人間が一人もいないのに、だれに向かっても愛想よく振る舞わなければならぬのだ。(中略)・・・きっと(11月)29日の事件から受けた衝撃のためだ。神はぼくがこの暴挙に加わるのを禁じられた。ぼくの力が及ぶ限り・・ぼくが死ぬ日まで・・・死んだ後でもぼくの灰は彼女*の足もとにあるのだと告げて彼女の苦しみを和らげてくれ。」*コンスタンツィア・グァドコフスカ

ショパンからワルシャワのヤン・マトゥシンスキ宛、クリスマスの朝・1830年ウィーンにて(アーサー・ヘドレイ著・小松雄一郎訳『ショパンの手紙』p106)
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