ショパン国際コンクール・後日編 ― 演奏者の美意識を反映したエディション選び
第16回ショパン国際コンクールが終了して、もうすぐ1ヶ月が経過しようとしている。これから改めて、どうショパンと向き合っていけばよいだろうか。
それを考える時、「どのエディションを使うのか」というのは、大事な再出発点となるだろう。
1960年よりヤン・エキエル氏が中心になって進められた国家事業の一つ、ナショナル・エディション研究。50年目となる今年、ついにナショナル・エディション全巻が刊行された。5年前より初めてショパン国際コンクールの正式楽譜として認定され、これからさらに多くのピアノ学習者や指導者の元で使われることになるだろう。今回の参加者の中にも、当初からナショナル・エディションを使用している人が増えたという。日本でナショナル・エディション普及に務めるピアニストの河合優子さんにお話をお伺いした。
また、ショパン・エチュードの指使いに関する研究などを手がける多田純一氏のお話より、ショパンのエディションの違いについてご紹介したい。
今回のコンクールは、5年前とは大きく変わりましたね(2005年からナショナル・エディションが初めてショパン国際コンクール使用推奨楽譜に)。以前に比べ、ナショナル・エディションがそれほど抵抗なく使用されるようになっていると思います。
1995年に私がショパン・コンクールで演奏した際には、当時のコンクール速報新聞に「3連符と付点リズムを同時に弾くリズムは間違いではないか。彼女はワルシャワで学んでいるのに。」という(誤った)批評が載り、それを読んだ当時審査委員長だったエキエル先生が抗議の電話をなさった(私は後に先生から聞いたのですが)ことも、今となっては懐かしい思い出です。それを思うと隔世の感がありますね。2000年のコンクールでは、ナショナル・エディションを使い3次予選まで進んだポーランドのラドスワフ・ソプチャクの自然な感覚が印象に残っています。あまりに自然で、今までと違うことに気づかないくらい上品で必然性がありました。
このエディションの使用は推奨であり義務ではありませんし、もしある響きに馴染まないという場合は決して無理をしなくてよいのです。でもナショナル・エディションには最も多くショパンの事実が載っていますから、コンクールに限らず、自分の音楽家としての一生のことを思えば、どの版を使ったらよいかという問題に関しては自然と答えは出るのではないかと思います。
自分の耳と心で納得して使うことが一番です。聞き慣れない音でも「ショパンはこう響かせたかったのではないかな」と確信を持ってもし弾くことができれば、その演奏は説得力を持ち、自然に聞こえます。例えばユリアンナ・アヴディエヴァは、幻想ポロネーズの(これまでのHisが)Hになる箇所で、次の導音Aisへの繋がりに説得力がありましたし、変ロ短調ソナタの繰り返しも怖がらずに弾いていたと思います(テキストに対する姿勢とショパン弾きとしての適性はまた別問題で、それを混同してはいけないのですが)。
最近では初めからこの楽譜を使っている人が多くなり、時代の変化を実感しています。とてもよい演奏をされた實川君も、エキエル先生の前で「自分は最初からナショナル・エディションで始めた曲が多いため、却って(一般的とされる)他の版の音に違和感が感じることがある」と話してくださいました。エキエル先生と審査員の先生方との集い(10月8日)の際も、結局問題は「年月が経てば定着し、現在の状況は変わると思われる」という言葉に集約されており、「要するに、慣れというのは人間の"第二のネイチャー"なのだから」といった言葉に対してマルタ・アルゲリッチさんが「そうよ、そうなのよ!」と大きな声を出して同意されていたのが印象的でした。ケヴィン・ケナーさん、フー・ツォンさん、ポポヴァ・ズィドロン先生、小山実稚恵さんなども、この版について質問をなさって、この集いはとても和やかな雰囲気だったのですが、でも真に歴史的な時間だとも感じました。
1960年のショパン生誕150年に始まり、2010年の生誕200年に完結。エキエル先生は今年97歳で、私は約20年前から近くで接しているのですが、お元気なうちに完結して本当によかったと思います。
『ナショナル・エディション』新版が出版されて以降、ペータース社とヘンレ版から新たに原典版がリニューアルされており、第二次大戦後に迎えた「原典版の時代」は、「第二の原典版の時代」を迎えつつあります。その違いは、使用される資料の違い、さらに校訂方針の違いが挙げられます(従来のエディション研究と出版されたエディションの歴史については、岡部玲子先生が2001年に提出された博士論文をご参照ください。『パラダイム手法によるショパン《バラード》全4曲のエディション研究』お茶の水女子大学)。
1982年にジェフリー・コールバーグ先生が書かれた博士論文(The Chopin Sources ; Variants and varsions in later manuscripts and printed editions. : The University of Chicago)では、ショパンの手稿譜が分類されました。この論文では最終的な印刷用の底本とされている製版用自筆譜と、最終的ではない自筆譜(放棄された自筆譜)を明確に区分けする概念が明確にされました。この概念が研究者の間で共通認識になったのが2000年以降です(武田幸子氏「ショパンの手稿譜について」ではその詳細が説明されています。『フォーラム・ポーランド 2009年会議録』ふくろう書店、収録)。『ナショナル・エディション』までの楽譜はそれ以前の分類を元にしていますので、初期のスケッチや放棄した自筆譜も資料に含めて、それが楽譜の中にも反映されています。また、従来のショパンの楽譜校訂においては資料混合についても明確に言及されてきませんでした。しかし2000年以降に出版されたペータース版やヘンレ版の新版に関しては、コールバーグ先生の区分にしたがって、製版用自筆譜以降の資料しか主たる楽譜には含まれません。ただその作品の成立を明らかにするために、またその作品が出版に行き着くまでの系譜を明らかにするため、スケッチや初期の自筆譜が資料に含まれます。また資料混合も行われず、ひとつの信頼するに値する資料(例えば「フランス初版第2刷」など)を復元し、ヴァリアントとして認められるものは、すべて主たる楽譜に隣接した場所もしくは脚注などに明確に分けて書かれています。そこが、『ナショナル・エディション』との校訂方針の違いです。
しかしながら、どの版が最も正しいか、という観点から、私たちは抜け出さなければなりません。原典版ではない校訂版においても、パデレフスキ版は60年、コルトー版は100年、ミクリ版も120年以上経っています。つまり、その時代、その時代にショパン像というものが形成され、その中にはショパンにより口頭伝承されたものも含まれるからです。近年、河合優子さんの演奏会に限らず「『ナショナル・エディション』に基づいた演奏」などという風に、演奏会のパンフレットに説明されることがあります。逆に考えれば「1900年頃に受容されていた版に基づく」という視点も成り立つということです。そのように考えれば、どの版が絶対的に正しい、ということではなく、演奏者が自身の美意識に基づいて使用するエディションを決定する、ということが重要だという結論に至ります。